クラウディオ・アバド&ジョージ・セルの初来日公演

クラシック音楽ファンでクラウディオ・アバドの名を知らない人はいないと思う。アバドは昨年1月に逝去した。惜しまれて亡くなる指揮者は数多くいるが、彼ほど仲間の音楽家から敬愛された指揮者はいなかったのではないだろうか。
1990年、アバドはカラヤンの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督に迎えられた。2002年までの在任中、世界の指揮者の頂点に立つ活動を展開した。40代後半からECユースオーケストラやグスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラを設立して世界の様々なユースオーケストラ設立の先鞭をつけ、ベルリン・フィル芸術監督辞任後も後進の育成に力を注ぎ、その音楽作りと共に新しいタイプの巨匠と称されていた。

Claudio Abbado(1933-2014)はイタリア・ミラノの音楽一家に生まれ、ヴェルディ音楽院で作曲とピアノを学び、ウィ-ン国立音楽アカデミーで指揮をスワロフスキーに師事。63年ミトロプーロス国際指揮者コンクールに優勝。68年~81年の間、ミラノ・スカラ座首席指揮者、同音楽監督、同芸術監督を歴任。79-83年ロンドン響首席指揮者、82-85年シカゴ響首席客演指揮者、86-91年ウィ-ン国立歌劇場音楽監督を歴任。90-02年ベルリン・フィル芸術監督。03年からルツェルン祝祭オーケストラ首席指揮者兼芸術監督を務め、14年秋には来日公演と東日本被災地訪問が予定されていた。04年にモーツァルト管を設立して亡くなるまで現役として意欲的に活動した。、

私はアバドの演奏会を聴いた記憶はあったが、どの演奏会で聴いたのかが不明であった。69年4月~88年3月まで旭川に住んでいたが、オペラを観たりコンサートを聴くため偶に札幌に来ていた。
旭川在住時の荷物から音楽関係の書類が出てきて、最近やっと証拠が見つかった。アバドがウィ-ン・フィルを率いて1973年3月20日~4月9日まで日本ツアー、9都市13公演を行っていた。札幌は最終日の4月9日。会場は71年に開館した北海道厚生年金会館。曲目は「ジュピター」と「英雄」。残念ながら、この時のことは記憶に残っていない。
その時期は職場も新学期の始まる忙しい頃である。始業式・入学式が終って夜のコンサートに今は亡き音楽好きの同僚に誘われて聴きに来たらしい。当時はアバドの名は知らなかったし、自分から積極的に行動していなかったと思う。彼とは度々札幌までコンサートを聴きに来たことが懐かしく思い出される。
(*アバドは1971年からウィーン・フィルの客演指揮者の任にあったのを把握していたら迷うことは無かったかも知れない。なお、ウィ-ン・フィルは1933年から常任指揮者を置いていない。)

札幌コンサートホールKitaraが開館した97年10月10日に初めてウィ-ン・フィルを聴いたと思っていた。この時の指揮者はハイティンクで、演奏曲目は「シェ―ンベルク:五つの管弦楽曲」と「ブルックナー:交響曲第7番」で聴き慣れない難しい曲だった。振り返ってみると、ウィ-ン・フィルの弦楽器の美しさは今でも脳裏に残っている気がする。18年前の演奏がどれほど理解できたのかは別として、音楽を鑑賞する心の余裕が鑑賞後の記憶に大きく関わっていると思える。

ベルリン・フィルのCDはカラヤン指揮のものは多く所有しているが、アバド指揮のCDは少しだけである。CDも現在千枚に達したが、一番最初に購入したCDが「アバド指揮ベルリン・フィル、五嶋みどり演奏による「チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番」で思い出の多い1枚(1998年12月購入)。チャイコフスキーの「悲愴」はアバド指揮シカゴ響で何度も聴き親しんだ。アバド指揮ベルリン・フィルでポリーニの「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番・第5番」も懐かしい。

この機会にクリーヴランド管弦楽団をアメリカ五大交響楽団の一つに育て上げたジョージ・セルについても書いておきたい。
セル(1897-1970)はハンガリー・ブタペスト生まれ。3歳でウィ-ンに移り、ウィ―ン音楽院でピアノ、作曲などを学んだ。1908年、ウィ―ン響と共演してモーツァルトのピアノ協奏曲でデビュー。14年、同響を指揮し、さらに同年ベルリン・フィルを指揮して自作品を発表。24年にベルリン国立歌劇場の第1指揮者、29年にはチェコ・フィルの音楽監督などを歴任し、セントルイス響、スコティッシュ管などに客演。39年にオーストラリア演奏旅行の帰途、第2次世界大戦勃発のためアメリカに渡り、帰化。戦後はNBC響、ニューヨーク・フィルなどを指揮。46年にクリーヴランド管の音楽監督に就任して同管を世界的水準のオーケストラに仕上げた。

1970年は大阪万博が開かれ世界的なオーケストラや音楽家が日本を訪れた年であった。この年の5月25日、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団が札幌でも公演を行った。会場が忘れもしない「中島スポーツセンター」。2300人収容のホールが完成していなかったためであろう。「特別なコンサート会場」と「帰りの列車で一緒になった音楽仲間の語らい」で思い出に残るコンサートとなった。セルがアメリカに帰国後の7月30日に逝去のニュースが入って衝撃を受けた。 そんなこともあって、この時のコンサートは忘れ難いものになっている。
演奏曲目は「モーツァルト:交響曲第40番」、「シべリウス:交響曲第2番」他。

※2010年にGEORGE SZELL “LIVE IN TOKYO 1970” (札幌公演と同じプログラム)/[ドヴォルザーク:交響曲第9番、スラヴ舞曲]のDISC2枚が発売されているのが判って手に入れた。

※1970年にマリア・カラスやリヒテルも札幌で公演していたことを知った。カラスが来札していた時期に、彼女と交際していたジュゼッペ・ディ・ステファノが旭川で佐藤陽子と共演。佐藤は当時ヴァイオリニストとして有名であったが、この時はステファノが折紙をつける歌手として出演した。世界で名高いテノール歌手が旭川に来演したのが嬉しくもあり、大々的な宣伝もなく何となく不思議な思いをしたのを覚えている。

[追記]
 1973年のウィ-ン・フィルの来日記念プログラムに若杉弘が「アバド讃」の文を載せていた。1963年のミトロプーロス国際指揮者コンクールにおけるエピソードを綴ったものである。コンクール参加者の一人が急性盲腸炎になり、決勝出場を断念して手術の必要があった。若杉は入賞しなかったが、仲間たちと病院に見舞いに行った。授賞式で優勝賞金をもらったアバドは、他の入賞者と計らい、「彼も出場していたら入賞して賞金を手にしていたかも知れない。俺たちの賞金を出しあって彼の分の賞金を作ってやろう。」と言って、病院に届けたと言う。
合宿同然のコンクール期間中、参加者全員が国籍の壁を越えて和気あいあいの雰囲気の中で生活したと言うが、アバドの人間性が伝わるエピソードの一つと言えよう。
 ※若杉弘(1935-2009)は読売日響常任指揮者(72-75)、ケルン放送響首席指揮者(77-83)、ザクセン州立歌劇場及びシュタ―カペレ・ドレスデン常任指揮者(82-92)、都響音楽監督(85-95)などを歴任。びわ湖ホール芸術監督(96-07)を務め、新国立劇場の芸術参与を経て、07年からオペラ部門芸術監督に就任したが任期半ばで他界。日本のオペラ界の重鎮だった。








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年間60回以上札幌コンサートホールKitaraに通うクラシック音楽ファン。クラシック全般に関心があるがオーケストラ・ピアノ曲が特に好きである。 

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