マチュピチュ村を創った日本人の話

世界遺産マチュピチュのことを知っている人は多い。マチュピチュ遺跡は15世紀、南米アンデスの山中にインカ帝国が築きあげた謎の要塞。5万km²に渡って神殿や居住区、段々畑などが残っている。切り立った山に囲まれたたずまいは神秘的である。この遺跡は1911年にアメリカの冒険家ハイラム・ビンガムによって発見されて世界の注目を集めた。
標高2400mの急峻な尾根に築かれた天空都市の麓に村を作った人の物語は知られていないし、関心も集めていない。私自身も昨年3月末から10日間の南米旅行でペルーのマチュピチュを訪れた。ロサンゼルス経由でペルーのリマ、クスコへと飛行機を乗り継ぐ長旅。標高3000mを越えるインカ帝国の古都クスコからバスに乗り換え、途中で観光列車に乗り換えてマチュピチュ村へ。100年前は先住民4家族が暮らしていたそうである。
      
        IMG_1103 (200x150) 

100年前、マチュピチュ(Machu Picchu)に最初の村を作った日本人の話が昨夜の「世界ふしぎ発見!」というテレビ番組で紹介された。初めて聞く話に興味津々でテレビを観た。
18世紀にスペイン人がペルーを征服した後も、アメリカ人が発見するまでその存在を知られていなかったマチュピチュ遺跡。1923年、その山の麓に野内与吉(1895年、福島県出身)がペルーに渡って辿り着いた村には数家族しか住んでいなかったそうである。現在は80軒もホテルがある村に作り上げた功労者が野内与吉という。
彼は材木商として材木の切り倒しの仕事でペルーの奥深くに入ったと思われる。(材木を運ぶ列車が今日では観光列車になった。)村人は川の水を飲み水にしていたが、野内は山の湧水を引いて村人が飲めるようにした。人々はヴァイオリン、マンドリン、ギターを弾いて喜んだという。1935年に彼はホテルを建設。その後、川の水をせき止め、ダムを作って水力発電で電灯もつけた。海外の旅行客に親しまれている村の戸外の温泉プールも彼が作ったとされる。村の誰からも慕われる人物だった。
1941年、太平洋戦争勃発で日本人移民が強制収容所に入れられた時にも村人に守られた。1947年の大雨による被害でもクスコ新聞に窮状を知らせ、村の復興につなげて村の偉人になっていた。
1958年、三笠宮殿下のマチュピチュ訪問による日本の新聞報道で日本への一時帰国のための寄付金が集まり、彼を招待したとされる。

野内与吉は子供のホセ・ノウチに日本語を教えなかった。息子はインタビューで日本語で返答できないことが父親への唯一の不満と言えるぐらい、父親は優しい立派な人だったと話していた。(*第二次世界大戦のため家でも日本語は使わなかったと想像される。)
今回の《世界ふしぎ発見!》の話題は黒柳徹子も初耳だった。野内の子孫がペルーで“Yokichi Nouchi ”のサインが書かれた文書をたどってその存在が明らかになった。
マチュピチュ遺跡訪問の折にマチュピチュ村に一泊して早朝、散歩を楽しんだが、その映像をテレビで一年ぶりに観れて懐かしかった。同時にマチュピチュを訪れる日本人なら野内与吉の足跡を当然知っておくべきであると思った。

寝不足と高山病を心配しながら4時間も歩き回ったマチュピチュ遺跡! 遺跡内にトイレは無く、水分補給をしながらの観光に不安はあったが、汗をビッシリかいて心配無用であった。あちこちで息を吞むような絶景で暫し満足感を味わった。
     
       IMG_1109 (200x150)     IMG_1123 (200x150) 
   IMG_1125 (200x150)    IMG_1127 (200x150)
       IMG_1128 (200x150)     IMG_1130 (200x150)
          



          
        


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:fsuterry
年間60回以上札幌コンサートホールKitaraに通うクラシック音楽ファン。クラシック全般に関心があるがオーケストラ・ピアノ曲が特に好きである。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR