時計台(旧札幌農学校演武場)にクラーク像の設置

昨日10月10日の午後は時計台ボランティアの活動日になっていた。今月に時計台に新しくクラーク像が設置されることは事前に承知していた。詳しい情報は得ていなかったが、屋外でなくて屋内に設置される方が好ましいと思っていた。午後2時過ぎに銅像が運び込まれ2階の演武場に設置される作業が始まった。クラーク博士の座像は岩倉具視が揮毫した「演武場」の書の真下のステージ上に設置された。除幕式は10月16日午前10時から行われて、一般公開が始まる。身の丈182㎝の腰を下ろして座した像は長椅子に固定され観光客が2・3人は同じ椅子に座って記念写真を撮れる配慮もなされている。
その時間に会場にいた数名の来館者は設置の様子を見守って、一足先に立派な坐像を目にできて喜んでいた。私も丁度いいタイミングでその場に居合わせて運が良かった。

クラーク胸像は北海道大学構内の古河記念講堂前に設置されている(1926年、大正15年建立)。戦後、観光客が押し寄せて、北大構内へのバス立ち入り禁止となった。そのため、新たに観光バスが立ち寄れるクラーク像の設置が検討され、1976年アメリカ合衆国建国200周年、クラーク来道100周年の折、羊ヶ丘展望台にクラーク全身像(*正式名は「丘の上のクラーク」)が設置された。
この他にもクラークの胸像は大学の本部やクラーク会館などを含めて何か所かに保管されているようである。

観光客が目にするクラーク像は上記の2つであったが、今回、椅子に座った全身像が時計台内に設置され、市内の便利な場所でもあり来館者が増えることが期待される。札幌市民もこの機会に農学校の歴史と時計台の歩みを詳しく知るチャンスでもある。札幌が誇る農学校と時計台の歴史を再確認してほしいと願う。

※午後の活動が始まって直ぐ、台湾から2名の若者が2年ぶりに時計台を再訪してくれた。多分、2年前に時計台ボランティアと一緒に撮った写真を私に見せて、“この人を知りませんか?”と尋ねてきた。写真の日本人は毎週1回は活動している年輩のボランティアだった。スケジュール表で確認して、“明日の午前9時~12時半まで時計台の当番になっています”と教えてあげると、“明日、また来ます”と言った。前回の対応に感謝して再訪してくれたのだろうが、外国からわざわざ2度目の時計台の訪問はなかなかできないことである。私もすっかり感動して、話も弾んで約20分ほどの紙芝居を上演してあげた。多分、前回とはまた違った角度から、改めて演武場と時計台の情報を新たにしてくれた様子であった。ボランティアが作った紙芝居に感心して楽しんでもらった。帰りに私を入れて記念写真を撮っていった。時計台の事務所の人にも連絡しておいたが、今日の午前中に再会していることだろう。人と人の出会いで、こんなめぐり合いもあることの素晴らしさを味わった。

※札幌農学校演武場は1878年10月16日開業なので、除幕式はその記念日に合わせた。
クラーク博士はホイラー、ペンハローと共に1876年6月29日横浜到着。同年7月31日、東京で試験を受けた13人の生徒と一緒に札幌到着。同年8月14日、札幌学校農学専門科開業式を北講堂で実施。(札幌農学校と改称されたのは同年9月8日。北海道大学
は8月14日を創立記念日としている。) 
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時計台ボランテイア活動2017

札幌国際プラザ外国語ボランティア・ネットワークに加わっているが、多岐にわたる活動の中で最近は時計台に関わる活動のみに参加している。昨年は5月から11月迄で25日間(午前or午後3時間半)の活動に参加した。ボランテイアは1シフト2名が普通で、以前は英語1名、中国語1名が多かったが、近年は英語2名が多くなった。私自身1名だけの活動日も何度かあった。私が1日に対応する人数は三・四十名。うち外国人は約1割。
年間の時計台入館者は約20万人。昨年7ヶ月間にボランティアが対応した人数の概数は、日本人2万人、外国人5千人。統計によるとアジア、ヨーロッパ、北アメリカ、中南米、オセアニアなど世界の約60ヶ国から来館者を迎えている。国・地域では中国、台湾、香港が断然多く、近年はマレーシア、タイからの観光客が増えている(*2・3年前までは韓国人も多かったが、個人的には少なくなった印象がある)。香港、マレーシア、タイの観光客は英語を話す。

5月から始まった今年度も月4回のペースで活動を行っている。今月の活動で印象に残ったのはインドネシアの4人家族。300年以上もオランダの支配下にあり、先の大戦時には日本の支配下にあったインドネシア。時計台にある「世界の鐘」を耳にして会話した女性は親日家の様子。大学生の息子2人とご主人を含む家族4人に「札幌農学校の演武場と時計台」の案内を依頼された。1・2階の案内が終って、彼らに時計機械のビデオを見てもらっている間に1階に降りたが(*ビデオに英語の字幕が新しく入れられたのに初めて気づいた)が、帰りにわざわざ御礼の挨拶に来てくれた。おもてなしの心が届いたのかと思うと嬉しかった。

前回の活動では韓国人の若いカップルに好印象を受けた。入場時に英語での説明を求められ、1階での説明で時計機械がボストンの会社からの輸入品と分かって突然、男性が興味を示した。彼がボストンの大学で学んでいることが判った。2階の時計機械の説明が終って、スナップ写真に一緒に納まった。帰りの階段で50年前の留学中に一時ルームメートであった韓国人の話や彼を通して知り合った数人の韓国人の良い印象を話して別れた。最初から好印象のハンサムな韓国人だったが、ビックリしたのは帰りの出口からボランティアの活動場所に戻ってきて、50分の1の時計台ミニチュアをバックに写真を撮りにきた。名前を趙恒瑞(CHO・Hang・Seo)とハングル文字も含めて書いてくれた。ピアニストのチョ・ソンジンと同じ苗字と分って親しみが増した。最後まで好印象を残してくれた青年だった。ボストンでも充実した学生生活を送ってほしいと思った。

日本人の来館者で微笑ましい姿を見せてくれた関西在住の年配の女性たち5人。“どちらからいらっしゃいましたか”に応えて、一斉に、それぞれ“関西、神戸、京都、兵庫、大阪”と応えてくれた。旧札幌農学校演武場・時計台の説明を実に表情豊かに、また興味深げに聴いてくれた様子には有難く思ったものである。最後はミニチュアをバックに一緒に写真に納まった。8年余の時計台活動でも記憶に残る来館者だった。多分、彼女たちは女学校時代のクラスメイトで二度目の修学旅行を楽しんでいるのでは?と思わせるような品の良い若さを持った人たちでした。

紙芝居の英語原稿が行方不明になっていて、20枚の絵を使っての紙芝居は前回まで休んでいた。先日のボランテイア活動の帰り際に英語の原稿が戻っているのに気づいていた。
本日の午後の外国人来館者はカナダのご夫婦とアイルランドの女性の3人。英国の北アイルランド出身の若者の対応をしたことはあったが、アイルランドの来館者は初めてだった。時計台の説明を聞く時間が充分にあるかを尋ねて、20分ほどかかる紙芝居を始めた。最初から彼らの関心の高さが分ったが、20枚の絵の説明に彼らの表情を見ながら語るような調子でストーリーを展開できて、聴き手の示す反応に刺激を受けて自分でも今までで最高の出来だったように思う。終了後の感想にも満足できた。

間を置いて、スーダンからの来館者で現在は大阪在住という女性が来館した。北海道は初めてで仕事の合間に時計台に立ち寄った様子。“日本語は話せますね”と言うと“チョットだけ”と答えたので、また紙芝居を英語ですることにした。彼女も非常に興味深げに聴いてくれ、教養の高い女性の印象を受けた。終了後に質問もしてきて、会話が弾み、大阪での仕事を訊くと大阪大学で経済学を勉強しているとのことであった。大学院で学んでいるか、研究生としての来日らしい。3年間で沖縄、長崎、熊本、松山などを旅して、10ヶ月後の離日までに東日本を旅行してみたいと語った。

2000年にエジプトに旅行した折に南の隣国がスーダンだと思い出した。南スーダンが独立したのはその10年余も後のことだと思うが、エジプトや南アフリカ以外のアフリカ出身の国の時計台来館者は珍しい。国のことは話題にしなかったが、南スーダンが独立する前はアフリカで最大の国土を持つ国だった。Sudanを彼女はスダーンと発音した。日本ではスーダンと表記しているが、スーダーン(*長母音が2ヵ所)という表記の仕方もあるようである。
帰宅してパソコンで確認したが、エジプトで“ヌビア”という語を耳にしていたことを思い出した。エジプトの南の国はアラビア人と違う黒人が住む国と知って認識を新たにした。中国がアフリカに進出して20年以上になるようで、残念ながらスーダンや南スーダンの今後の見通しは明るくないようである。

これからアフリカ人の来道も増えてくることが予想される。より世界が狭くなっていることを言葉だけでなく実感できる日がやってくる。51年前にマラウィという国の肌が真っ黒な19歳のアフリカの黒人と話す機会があり、英語で通じ合えることの驚きと喜びを感じたのを思い出した(*スーダン出身の来館者はアラブ系アフリカ人だった)。

平成28年度時計台案内活動反省会と親睦ランチ会

今年度5月1日~11月30日まで7ヶ月間に亘って行われた時計台案内活動の反省会が国際プラザの会議室で行われた。時計台ボランティア活動が始まって8年が経つ。反省会に参加するのは数年ぶりである。昨年は体調を崩して活動日数が減ったが、今年は月4回平均のペースで活動した。
昨年に続いて今年も1日午前・午後の2回の活動の充足率が100%だったと知り、改めてシフト担当のボランティアのご苦労に感謝した。すべてのボランティア活動は無償である。今年度の時計台定点案内活動の登録者は116名。実際の活動人数は63名(男30、女33)。活動期間中の来館者の概数は11万人。(*年間の時計台入館者数は約20万人)。ボランティア対応人数は日本人2万人、外国人5千人。海外からの来館者は約60ヶ国。外国人対応の言語は英語、中国語、韓国語。中国人の来館者が一番多いが、以前に比して英語対応が断然多い。来館者の反応は例年通り、好印象が続く。時計台と札幌の街に対する好感度は高い。喜んでくれる来館者に接すると来年度への活動意欲も湧き上がってしまう。

反省会の出席者約30名のうち、半数がグランドホテルでの親睦ランチ会に参加した。女性の参加者が1名のみで寂しかったが同年代の参加者以外に、今年度の新規登録者11名のうち2名の若者と会の後半に交流できて良かった。来年度の彼らの活動を激励しながら自らの活動も奮い立させる日になった。

今年も残り2週間になった。時計台活動日数が24日間に対し、Kitaraでのボランティア活動はDM(ダイレクト・メイル)活動のみで14日間。以前と比べて活動日数も減った。コンサートでKitaraに出かける日もあと2回の予定。明日は及川浩治のリサイタルと札響くらぶのミニコンサートが連続する。腰の治療で整骨院に連日通いながら日程を過ごしている。無理が通るのは元気のせいだろうと自問している。

時計台ボランティア活動(7)

時計台ボランティア活動を始めてから8年目に入るが昨年は病気入院もあって余り活動が出来なかった。今年度は例年より1ヶ月早く5月から始まった。先月は体調も回復して6回活動が出来た。今月は結果的に3回だった。外国人の来館者は例年と少し違った傾向としてタイやマレーシアの観光客が多い印象を受けている。タイからの来館者でタイ語を使わない人が増えているようである。英語での説明が歓迎されている。

1876年(明治9年)に日本最初の農学校として開校した旧札幌農学校(*北海道大学の前身)の演武場は1906年(明治39年)に札幌区に移管された。演武場(Military Drill Hall)は初代教頭クラーク博士の構想に基づいて第2代教頭ホイラーが平面プランを作成し、安達喜幸の設計により1878年(明治11年)に完成。当時の建物には時計はついていなく屋根の上に鐘楼があった。北海道開拓使長官黒田清隆の指示で鐘の代わりに時計を設置することになった。ホイーラー(Wheeler)は米国マサチューセッツ州ボストンに時計機械を発注し、1881年(明治14年)に現在の時計塔が完成した。

明治時代に日本に設置された72台の時計台のうち現在でも動き続けている時計は札幌市時計台だけである。札幌が誇る貴重な文化財なのである。北海道と姉妹提携を結んでいるマサチューセッツ州から札幌市時計台を訪れる人たちもいる。ホイーラーの出身地マサチューセッツ州コンコード(Concord)から市の関係者やホイーラーの出身高校の教師が来札したこともある。数年前にはコンコードの高校生数十名が修学旅行で来館して歓迎会が開かれた。(*高校生の引率責任者が1972年札幌オリンピック以来の来札だと挨拶で語っていたのを思い出した。) 訪問団一行は度々札幌市時計台を訪れている。

絵も得意なボランテイアが紙芝居を作って日本語や英語で「時計台の歩み」を来館者に紹介した時には数回、彼の活動を見守ったことがある。80歳を超えて新しい試みに挑戦した彼の活動は新聞やテレビで話題になった。残念なことに彼は逝去したが彼が作成した紙芝居を発展的に引き継ぐ活動が行なわれている。20枚ほどの絵で約20分ほどかかる日本語版、英語版のほかに中国語版も作られた。
私は昨年、日本語版と英語版をそれぞれ1度上演する機会を持った。丁度1年前の6月28日午前のシフトに当たっていた時に時計台館長からアメリカ人2人の対応を依頼された。彼らは北海道・マサチューセッツ州姉妹提携25周年訪問団のコンコード出身の2人。30分程度での案内を依頼されたので紙芝居を披露することにした。私としては初めての経験であったが、一応順調に事を運べた。何度か来札経験のある年配者と若いブラスバンドのコンダクター。私の学んだフロリダ州立大学の話が出たら、若い人が同じ大学出身と知って驚いていた。札幌白石高校の吹奏楽部と交流を図ったらしい。東海第四高(*現東海大札幌)の話をしたら初耳と言っていた。当時の来館依頼書のコピーが手元にあって懐かしく思い出した。
日本語での紙芝居は十数名が集まり関心を持って聴いてくれた。

昨年の経験を基に今年は既に英語で3回、日本語で1回実施してみた。最初はマサチューセッツ州からの来館者。一人旅で北海道が姉妹州とは知らなかった。今年2回目は対象がマレーシアの学生。引率の教師と思われる人を含めて7名が実に熱心に時計台のストーリーを楽しんでくれた。とても真面目な研修生の印象を受けた。昨日はフランスの女性で鑑賞の後に“日本の文化を味わった”と感想を述べてくれた。紙芝居という言葉に反応していたので日本の知識をある程度持っていたようであった。お国を訊いたら英語流でなくてフランス語流の鼻にかかった独特の発音で心地よさを味わった。

昨日はサンフランシスコから4人家族が来館。子供は“Where are you from?”に“USA.”、“What state?”に“California.”、“What city?”に“San Francisco.”と子供らしい反応で即答。“I visited San Francisco fifty years ago.”と話していたら思わず両親も加わって話が弾んだ。両親と話していると動き回る2人の息子が着ていたユ二フォームにファイターズYOHとサッカー選手MESSIという名を見て微笑ましかった。イタリアの家族は日本語が話せるという男の子に話しかけてみたら恥ずかしそうで反応がなかった。母親に日本語で時計機械の説明をしたらとても興味を持ってくれた。
昨日は暑い1日だったが、新渡戸稲造を始め農学校の卒業生や教授陣の話などにも話が及びゆっくり落ち着いた雰囲気で説明を聴いてくれる来館者が目立って充実した活動ができた。

※書斎として使っている部屋に数年前からコンコードのお土産としてもらったトランプを置いていた。孫が来宅した時にトランプをするが、人物が描かれているカードで使った事がなかった。今回たまたまコンコード名物のカードの中身を見てみた。カードには13名のコンコードゆかりのアメリカの有名人の名があった。Emerson、Alcott、Hawthorneの名を見つけてビックリした。エマーソン(1803-82)はアメリカの随筆家、詩人。オールコット(1832-88)は“Little Women”「若草物語」の著書で有名なアメリカの女性作家、ホーソン(1804-64)は“The Scarlet Letter”「緋文字」などで有名なアメリカの小説家。

3人の作家とも原書で読んだことがある。特に“The Scarlet Letter”は英文学の授業で大学3年時の担任であった教授から仲間と一緒に学んだ小説である。英語科の担任であったその教授とは卒業以来交流が続いて毎年札幌市内で英語専攻の仲間8人ほどが集まって会合を開いている。教授は2年前に91歳で亡くなられたが、奥様も会合に出席する関係が続いていて、ロスアンゼルス在住の仲間も毎年6月6日には札幌に来て交流会が続いている。

コンコードはWilliam Wheelerの出身地で彼は札幌農学校に足跡を残しているだけでなく、札幌市水道記念館にも彼の専門書があり、札幌の水道事業にも貢献したようである。彼の出身校の学生や教師が偉大な先輩の業績を知るために札幌を訪れてくれるのは喜ばしいことである。
孫が来札した折にはコンコードから贈られたカードを使ってトランプ遊びをしてみようと思う。

時計台ボランティア活動(2014年)

2014年の時計台ボランティア活動も今日で終った。2月の雪まつり期間中にも特別な活動日があるが、例年は6月~11月の半年の間、国際ブラザ外国語ボランティアとして時計台を拠点にした活動に従事している。今年も月4回のペースで活動した。

外国人の来館者は1割程度であるが、一応世界各国から来館している。今年度後半はグループで来館するタイ、シンガポールの旅行客が目立った。香港からの観光客は2人連れで旅行する客が多いようである。欧米人の中には日本旅行中に英語を話す機会がなくてフラストレーションを感じている人も偶に見受ける。館内の説明より、英語で会話することで精神的に落ち着く人がいるのに毎年気付く。
今日の午前中だけで20名ほどの外国人が来館して、特に幼児を含んだ家族連れのシンガポール人十数人が英語の説明に傾聴してくれた。子どもたちの礼儀の良さと教育のレヴェルに関心した。円安の影響もあって多くの観光客が来日しているのかなという印象も受けた。

日本人で北海道を1週間かけて旅をする人もいるが、2泊3日の旅で、帰りの日の午前中に時計台や赤レンガ庁舎を訪れる旅行者が多いようである。何度も来道している人は時間的余裕を十分に持って来館している。来館者は時計が133年前から機械仕掛けではなく重りを利用して人間の手で手間をかけて動き続けているのを知って驚く。
当時の札幌農学校では農業、土木、工学、数学、物理学、化学、生理学、文学、倫理学など英語で授業が行われ、全人教育を受けていたことまで知って帰る人はまだ多くはないようです。

十日ほど前の時計台活動日に嬉しいことがあった。41年前に担任した教え子が卒業アルバムを持って時計台を訪ねてくれた。その女性とは1年間の繋がりだけであったが、私に怒られてばかりいたと言う。同級生に私と会いたいと言っていたらしい。その友人が偶々私の1ヶ月前の時計台ボランティア活動の様子をテレビで見て彼女に連絡した。(大阪のテレビ局が「恋の町札幌」の歌で知られた『石原裕次郎と時計台』の繋がりで取材に訪れていた。) その結果、私の消息が判り、時計台の事務局に連絡をして私の活動日を知って訪ねてきた次第。
孫2人がいて、英語教室で指導を続けて33年と言う。そのメリハリの効いた話しぶりに普段の活躍ぶりが目に浮かび、彼女の行動力に感心すると同時に感謝の気持ち! 教員冥利に尽きる場面が何度かあるが、今回も清々しい気分を味わった。

押しつけのボランティア活動にならないように、状況を見ながら必要に応じて来館者におもてなしの心で対応するように心がけている。来館者に情報を提供して自分自身も彼らから喜びを与えてもらっている。それなりに充実した活動ができ、個人的にも気持ち良く今年の活動を終えれたことは何よりであった。

時計台ボランティア活動(2013年度)

今年も6月から月4回の時計台ボランティア活動を行なっている。
今日たまたまシフトに当っていた8月12日は時計台の時計機械の誕生日でした。1881年(明治14年)8月12日の正午に稼動し、風雨に耐えながら、現在も正確に時を告げ、鐘を鳴らしています。2013年8月12日は時計稼動132年記念の日でした。2階に集まっていた約100名の来館者に11時45分から時計台館長が時計に関する話を始めた。いよいよ正午近くになり電波時計を持っていた来館者の協力でカウント・ダウンが始まって、12時正午に鐘が12回鳴り、居合わせた人々が誕生日を拍手で祝った。

子どもの夏休み期間中とあって、あいにくの雨模様にも関わらず家族連れの姿が目立った。小さな子どもや小学生を連れた夫婦、孫を案内する年輩の人たち等、朝早くから入場してくる人の応対に大忙しであった。時間に余裕を持って訪れる来館者には興味の程度に応じて演武場、時計機械、新渡戸稲造のこと等を説明した。いつの間にか雨も上がって、昼近くには大勢の入場者が訪れて、カウント・ダウンを楽しんでいた。時計台で良い思い出ができた様子がうかがえた。殆どが本州からの観光客で、今日の午前中は珍しく外国人の姿があまり見えなかった。

日本最初の農学校として札幌農学校は1876年(明治9年)に開校した。マサチューセッツ農科大学学長のクラーク博士がホイラー、ペンハロー両教授と共に札幌に赴任して8月に開校式。生徒は24名。(大部分の授業が英語で行なわれたために、4年後に卒業できた生徒の大部分は東京英語学校出身の生徒で、一期生として卒業できた者は13名。)1878年(明治11年)10月16日に演武場(兵式訓練、体育の授業、儀式の場)の落成式が行われた。当時の北海道開拓使長官黒田清隆が塔時計の設置を指示したことで、1881年に時計塔が完成して8月12日正午に運転が開始された。

IMG_0794 (300x225) 昨年2月の雪まつり期間中のボランティア活動の折の時計台のただずまいは他の四季の様子とかなり違う。 

 
札幌市時計台は日本最古の塔時計である。時計塔は5層構造になっており、5階にある鐘から重りが下がる1階までが時計の機能を果たしている。時計機械は時を刻む装置と鐘を鳴らす装置が一体となっている。アメリカのE・ハワード社製で、動力としての重りを利用する機械式。重りは2種類あって、運針用が約50kg、打鐘用が約150kg。重りの巻き上げは人力により週2回行っている。毎正時に時の数だけ鐘が鳴る。鐘の音はかっては一里(約4km)四方に響き渡ったと言われる。現在は周囲がビルに囲まれていて、近くにいないと鐘の音に気付かないらしい。時計は風などの影響が少なくて、今では1日1秒も狂わないそうである。

時計台近くで時計店を営んでいた井上清さん(故人)が時計台の時計が止まっているのに気付いて、1933年(昭和8年)にボランティアで保守点検の仕事を始めた。その後、井上和雄さんが引き継いで親子2代で約80年に亘って塔時計を守り続けてきた。4年前に井上さんが引退して、現在は社団法人・札幌市友会が保守点検の仕事を行なっている。
時計台が今日あるのは井上さん親子の献身的なボランティア活動に負うところが大であると思っている。私は時計機械の説明をする時には井上さん親子の話を必ずする。井上さんは腰を痛めて足も少々不自由ですが週2回事務室に顔を出している。私の活動日は月曜日なので毎週会う機会があって、偶然館内を通る井上さんの姿を見るとお客さんに紹介することもある。

関東大震災、第二次世界大戦の空襲や時代の流れで失った文化財が沢山あるが、時計台の中に入って学ぶことはいろいろある。外国の観光客や本州の観光客が圧倒的に多い現状ですが、札幌市内に住んでいる人には、ゆっくり時間を取って是非見学してほしいと思う。私自身も5年前にボランティア活動を始めてから学んだことが大部分で、まだ知らないことの方が多いのではないかと感じている。

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現在の時計台には演武場が建設された135年前の窓ガラスが数多く残っていて、外の景色を見ると歪んで見えるのが判る。道路を走る自動車のガラスと反射すると窓のガラスの見事な模様が見える時があるそうである。普段でも注意して窓の外を見ると、ガラスがゴツゴツしていて普通のガラスと違うことに気付く。(ガラス窓であっても外からは内部が見えないガラスがKitaraの楽屋に使われていることを思い出したが、100年以上前からガラスにもいろいろな工夫があるようだ。)

2階の正面に「演武場」の額が飾られていて、書の左側に《従一位具視》と署名がある。当時、右大臣であった岩倉具視の揮毫である。この額を背景に記念写真を撮っていく人が結構いる。(岩倉具視の揮毫した書と気付く人は少ないようであるが、、、)
北極星をかたどった「五稜星」は北海道開拓使のシンボルマークで、北海道開拓時代の建物として演武場の他に、道庁赤レンガ庁舎、豊平館、サッポロビールのマークに使われ、北海道の旗にも使われている。(サッポロビールは開拓使が作った官営のビール工場だった。)

 
  



時計台ボランティア(4)

 今年度の時計台ボランティア活動は11月で終りで、今日の午後のシフトが今年最後となった。今朝から北海道は暴風雪に見舞われたが午後は何とか天気も回復した。
 
 いつもより来館者は少なかったが、かえって落ち着いて札幌農学校の演武場や時計機械の説明をすることができた。時計台が「演武場」という名称だった理由は説明を聞くとやっと納得してくれます。 札幌時計台の時計はおもりで動いています。週に2度機械室に入って、重りを手動で巻き上げることで動き続けていることを知って皆さんビックリされます。
 
 農学校2期生の新渡戸稲造のノートがきれいな綴りの英語で書かれているのに気が付くお客さんは余りの見事な美しい字体に驚きを隠せません。また、明治時代に農学校で授業が英語で行われていた事など予想もできないようです。

 オーストリアのウイ―ンから来た人に英語での案内を求められ、ホーレス・ケプロンや黒田清隆の写真から説明を始めました。その時に「黒田清隆の次の北海道開拓使長官は西郷隆盛の弟だったのか」と尋ねられ、「いや、それはわかりません」と答えるほかありませんでした。彼は「写真で見てきた」と言うのです。時計台の前に赤レンガ(旧道庁)を訪ねて、歴代の長官名とその写真を見てきたらしい。西郷隆盛がファンなので確認したいようでした。
 
 新渡戸稲造のことは知識がなかったようで詳しく説明してあげました。2階の時計機械のことも関心を持って聞いてくれましたが、とてもユーモアに溢れた感じの良い人でした。
 
 帰宅してから、パソコンで検索して確認してみると、第4代北海道開拓使長官として1ヶ月足らずですが、確かに、その任に西郷従道(つぐみち)の名前がありました。
 
 彼は囲碁のオーストリア代表で日本に11月の初めに来て、来週帰国するとのことでした。

札幌時計台でのボランティア活動(3)

 クラシック音楽の分野で2012年はドビュッシーの生誕150周年で、コンサートのプログラムに例年より多くドビュッシーの曲が演奏されている。

 今年は日本の偉大な教育家・思想家であった新渡戸稲造の生誕150周年に当たり、札幌時計台で8月末から10月8日まで記念展が開催された。この機会に時計台でのボランティア活動を通しての新渡戸博士に関するエピソードを二三紹介したいと思う。

 新渡戸稲造は五千円券の肖像になったこともあり子供から大人まで広くその名が知れ渡っているが、彼の業績が具体的にはそれほど知られていない。時計台を訪れた学生に新渡戸博士が日本銀行券の肖像になったことに疑問を呈されたことがある。「武士道」という本を英文で書いてニューヨークでベストセラーになったり、第一次世界大戦後にできた国際連盟の事務次長を勤めあげて国際的に活躍した人物で、それが評価されてお札の肖像になったのでしょうと説明したことがありました。

 カナダの訪問客からはバンクーバーに「新渡戸記念庭園」があることを知らされて改めて博士の国際的な評価を感じ取りました。1960年にブリティッシュ・コロンビア大学のキャンパスに造園され、2009年には天皇・皇后も同庭園を訪れたそうです。

 昨年の台湾旅行で「新渡戸稲造は後藤新平とともに台湾の発展に貢献して、台湾第2の都市である高雄を作り上げた」とガイドが紹介していました。博士が台湾でも足跡を残していることを初めて知りました。
 今年の6月頃、初めて北海道旅行の折に札幌を訪れた高齢の婦人が<祖母から「新渡戸稲造に世話になった」と子供の時からよく話を聞かされていたが、博士とどういう関係か謎なのです。>と私に話しかけてきました。私が台湾での思い出話をしましたら、「謎がやっと解けました。台湾製糖に勤めていたのです。」 長い間、心に引っかかっていたことを取り除けてホッとした様子で、礼を言われ私も嬉しい気持ちになりました。

 今日はたまたま新渡戸稲造博士生誕150周年記念展の最終日でした。アメリカのアイダホ州から来館した人と話が弾んだ。彼の奥さんに新渡戸稲造の「武士道」の本について説明したら、夫がアメリカの剣道の先生へのお土産に英文の"Bushido:The Soul of Japan"を書店で買い求めていたと言った。「武士道」という日本語を知っていて、著者の知識なしで購入していたらしい。良い本を買ったことで喜んでいました。 

 9月1日が新渡戸稲造博士の誕生日で、当日の朝に当番になっていた時計台に着いて、初めて150周年のことを知りました。16・7枚のパネルを読んで新しく吸収できたこともあり、その後、記念展について出会う人に紹介したりもしました。記念展の最終日に当番になったのも偶然でした。新渡戸稲造への興味がますます深まる昨今です。

札幌時計台でのボランティア活動(2)

 一昨日に続いて時計台での活動になった。実は昨日の前橋汀子のコンサートの直後に、Kitaraでも札幌コンサートホールのボランティア活動に従事したんです。Kitara見学ツアー「大ホール舞台裏見学ツアー」で楽屋・ピアノ庫・ホアイエなどの案内役でした。結果的には3日連続のボランティア活動になってしまいました。

 朝9時前に時計台に着くと、すでに来館者がいて「演武場の歴史・札幌農学校・時計塔・時計機械」などにまつわる話を詳しく話すと、ある女性が「来て良かった。昨日飛行機に乗れなくてよかった。」と言葉を発したのです。飛行機の欠航のため予定外の計画で来館したようです。
 
 活動終了間際に、前述の女性から「面白い話を聞いた」と聞き再度訪れた観光客もいました。自分の好きなように自由に活動させてもらっていますが、来館者に喜んでもらえると疲労感など吹き飛びます。

札幌時計台でのボランティア活動(1)

 札幌時計台でボランティア活動を始めてから4年目になる。毎年6月から11月までの観光客が多く来館する時期に活動を依頼されている。私は月平均4回、年20回程度である。外国人対応のために配置されているが、応対の8割は日本人である。ボランティアを始めてから、時計台それ自体について学んだことも多いが、来館者から日本人の礼儀正しさなどを含めて学んだことも多い。

 外国人は世界中から来ているが、アジアが断然多くてヨーロッパや北米からも来館者がいる。 
以前は香港・韓国・台湾から訪れる人が多かったが、今年は随分と減っているようである。

 今日の午前9時~12時半までの当番では、珍しくアルゼンチンの留学生と親しく交流できた。
時計台の建築様式に興味を示して予想もしない質問もしてきて、向学心が旺盛な好感の持てる若者であった。英語で話していたが日本語も理解できることが判り、難しいことでも意思の疎通が十分にとれた。

 また、3・4歳の外国人の幼児に英語で話しかけたが、子供が恥ずかしがっている場面で、2人の男の子の父親がスリランカから来たと答えてくれ、いろいろ話が弾んだ。現在は岐阜在住で北海道は2度目の訪問だが、子供たちを北海道に連れてきたかったとのことだった。母親も遊園地が近くにないか尋ねてきて相談にのってあげた。2階の時計機械の前に私がたまたまいた時に、父親は関心を示していろいろ質問をしてきた。最後に自分の家族への応対と時計台についての説明に感謝の言葉を述べて帰って行った。

 どこの国の人でも同じではあっても、今迄に応対したことがない外国の人とコミュニケーションが図れるのは嬉しいものだ。

 これを機会に札幌時計台についてもブログに書いてみようと思う。
 
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Author:fsuterry
年間60回以上札幌コンサートホールKitaraに通うクラシック音楽ファン。クラシック全般に関心があるがオーケストラ・ピアノ曲が特に好きである。 

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