「イグアスの滝」観光の思い出

南米旅行に出かけたのが2年前の3月末。ペルーのマチュピチュを目指した。私のブログはコンサートの記録が中心だが帰国1年後にテレビ番組を見て《マチュピチュ村を創った日本人》と題して珍しいブログを書いた。当時、興味深く読んでくださった方が大勢いた。いずれはリオ・デ・ジャロネロ・オリンピックの折に《イグアスの滝》についても書いてみようと思っていた。

マチュピチュ観光を堪能してクスコに1泊した翌日は飛行機でペルーの首都リマ経由で空路イグアスへ向かった。4時間余りの飛行時間は偶々隣り合わせに座ったオーストラリアの観光客と親しくなって会話が弾んだ。40年前に2ヶ月程オーストラリア各地を訪れたこともあって話題は尽きなかった。彼らの旅行の日程は3週間くらいは普通。20名ほどの団体だが、マチュピチュには山を数日かけて登るグループと幾つかのグループに分かれて日程を組んでいるようだった。オーストラリアから南米に来るのは長旅だと思ってしまったが後で同じ南半球の国で日本よりずっと近いことに気づいた。南米には日本より気軽に渡って来れるのだ。(何十年か前に沖縄を訪れた時の台湾観光客に出会った折にも似たことがあった。つい自分中心に考えてしまう結果である。)
ブラジル到着前に機中からイグアス川と延々と続く滝の姿も目にできてワクワクした。

ブラジル側のフォス・ド・イグアス国際空港に到着。ブラジルは入国審査が厳しい。日本出発前もブラジル旅行に際してビザを取得する手続きが大変手間がかかって驚いた。旅慣れたオーストラリアの観光客もパスポートの有効期間で引っかかって一行の入国に時間がかかったようであった。

ブラジル入国日は私の誕生日だった。ホテルの夕食会場となった大きなレストランではグランドピアノから音楽が流れていた。間もなく“Happy Birthday to You !”のメロディが流れてきて、気付くと巨大なケーキを持ったボーイがテーブルに近づいてきた。旅行会社の添乗員から贈り物も戴き、約20名の旅の仲間からも祝福してもらったのは未だ忘れられない思い出である。


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3月29日はアルゼンチン側からのイグアスの滝の観光。滝への玄関口となる街はブラジル側がフォス・ド・イグアス、アルゼンチン側はプェルト・イグアスである。宿泊したブラジル側のホテルからアルゼンチンの街に入る。写真左上はアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの三国国境地点で撮ったもの。アルゼンチン側のイグアス国立公園(PARQUE NACIONAL IGUAZU)に入場。トロッコ列車に乗って「悪魔のノド笛」と呼ばれる滝の落下の様子を直前で見られるポイントから撮った写真が右上。滝の落差が最も大きく常にしぶきが降りかかるポイントで轟く音の迫力が物凄かった。
午後は自由行動で国立公園内の小高い様々な場所から滝の姿を鑑賞した。妻は上下のカッパを用意して約20人乗りの小型ボートに乗船して滝の落下点近くまで出かけた。
翌日午前の降雨確率が高いため午後4時過ぎにブラジル側に移動してヘリコプターに搭乗して上空から滝を鑑賞した。


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翌日の30日は正午にホテルを出発してブラジル側のイグアス国立公園(PARQUE NACIONAL DO IGUACU)に入場。公園内に作られた歩道を3時間ほどかけて滝の雄大な景色を様々な角度から鑑賞。予想を超えた滝の数の多さに圧倒され、滝の素晴らしさを堪能した。
50年前に《ナイアガラの滝》を訪れてアメリカ側とカナダ側から鑑賞したが、鑑賞にかけた時間と鑑賞地点の数の違いもあるが《イグアスの滝》が予想以上に断然凄かった。

現在はtwitterは行なっていないが、昨年イグアスの滝に虹が架かった美しい光景をツィッターの画面で見てつぶやいたことがあった。確か今年のオリンピック期間中にも現れる現象だと聞いた気がする。

Rio Olympicsが始まった。華やかな開会式も無事終了してこれから2週間はテレビに釘付けとなる。日本選手の活躍をワクワクしながら見守りたい。



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マチュピチュ村を創った日本人の話

世界遺産マチュピチュのことを知っている人は多い。マチュピチュ遺跡は15世紀、南米アンデスの山中にインカ帝国が築きあげた謎の要塞。5万km²に渡って神殿や居住区、段々畑などが残っている。切り立った山に囲まれたたずまいは神秘的である。この遺跡は1911年にアメリカの冒険家ハイラム・ビンガムによって発見されて世界の注目を集めた。
標高2400mの急峻な尾根に築かれた天空都市の麓に村を作った人の物語は知られていないし、関心も集めていない。私自身も昨年3月末から10日間の南米旅行でペルーのマチュピチュを訪れた。ロサンゼルス経由でペルーのリマ、クスコへと飛行機を乗り継ぐ長旅。標高3000mを越えるインカ帝国の古都クスコからバスに乗り換え、途中で観光列車に乗り換えてマチュピチュ村へ。100年前は先住民4家族が暮らしていたそうである。
      
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100年前、マチュピチュ(Machu Picchu)に最初の村を作った日本人の話が昨夜の「世界ふしぎ発見!」というテレビ番組で紹介された。初めて聞く話に興味津々でテレビを観た。
18世紀にスペイン人がペルーを征服した後も、アメリカ人が発見するまでその存在を知られていなかったマチュピチュ遺跡。1923年、その山の麓に野内与吉(1895年、福島県出身)がペルーに渡って辿り着いた村には数家族しか住んでいなかったそうである。現在は80軒もホテルがある村に作り上げた功労者が野内与吉という。
彼は材木商として材木の切り倒しの仕事でペルーの奥深くに入ったと思われる。(材木を運ぶ列車が今日では観光列車になった。)村人は川の水を飲み水にしていたが、野内は山の湧水を引いて村人が飲めるようにした。人々はヴァイオリン、マンドリン、ギターを弾いて喜んだという。1935年に彼はホテルを建設。その後、川の水をせき止め、ダムを作って水力発電で電灯もつけた。海外の旅行客に親しまれている村の戸外の温泉プールも彼が作ったとされる。村の誰からも慕われる人物だった。
1941年、太平洋戦争勃発で日本人移民が強制収容所に入れられた時にも村人に守られた。1947年の大雨による被害でもクスコ新聞に窮状を知らせ、村の復興につなげて村の偉人になっていた。
1958年、三笠宮殿下のマチュピチュ訪問による日本の新聞報道で日本への一時帰国のための寄付金が集まり、彼を招待したとされる。

野内与吉は子供のホセ・ノウチに日本語を教えなかった。息子はインタビューで日本語で返答できないことが父親への唯一の不満と言えるぐらい、父親は優しい立派な人だったと話していた。(*第二次世界大戦のため家でも日本語は使わなかったと想像される。)
今回の《世界ふしぎ発見!》の話題は黒柳徹子も初耳だった。野内の子孫がペルーで“Yokichi Nouchi ”のサインが書かれた文書をたどってその存在が明らかになった。
マチュピチュ遺跡訪問の折にマチュピチュ村に一泊して早朝、散歩を楽しんだが、その映像をテレビで一年ぶりに観れて懐かしかった。同時にマチュピチュを訪れる日本人なら野内与吉の足跡を当然知っておくべきであると思った。

寝不足と高山病を心配しながら4時間も歩き回ったマチュピチュ遺跡! 遺跡内にトイレは無く、水分補給をしながらの観光に不安はあったが、汗をビッシリかいて心配無用であった。あちこちで息を吞むような絶景で暫し満足感を味わった。
     
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Author:fsuterry
年間60回以上札幌コンサートホールKitaraに通うクラシック音楽ファン。クラシック全般に関心があるがオーケストラ・ピアノ曲が特に好きである。 

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