ウラディーミル・アシュケナージの札幌公演

ピアニストとして世界最高峰の地位に上り詰めたウラディーミル・アシュケナージが指揮者として今週末の2日間、札幌交響楽団を指揮してKitaraのステージに立つ。
今年の札幌は初雪が遅かったが25日で積雪が44cmに達し、11月の降雪量としては62年ぶりと言う。一気に冬を迎えた札幌の地で、アシュケナージも冬の到来に驚いているかも知れない。
アシュケナージが1955年のショパン国際ピアノコンクールで第2位を収めて(*当時18歳で第1位の評価もあった)、56年のエリザベート国際コンクール、62年のチャイコフスキー国際コンクールにそれぞれ優勝してから、50年以上もの月日が経つ。
彼はソ連を離れ、68年からはアイスランドに移住(*現在はスイス移住)。70年代頃から指揮活動を開始した。81年からフィルハーモニア管、87年ロイヤル・フィル、89年ベルリン・ドイツ響、98年チェコ・フィルなどの首席指揮者や音楽監督を歴任。2004年からはNHK響の音楽監督を務めたこともあって日本との繋がりも深い。

今回の札響指揮でアシュケナージの演奏を聴くのは4回目であるが、完全に指揮だけに専念する札幌登場は今回が初めてである。昨年の2015-2016シーズンの札響プログラムの発表以来、大変楽しみにしていた。彼と同時代を生きた祖国ロシアの偉大なる作曲家ショスタコーヴィチの曲を聴けるのは楽しみである。

92年4月、旧北海道厚生年金開館で初めて聴いたアシュケナージのリサイタルは今でも忘れられない。当時からタートルネックのセーターを着てステージに上がっていた。「展覧会の絵」が演奏されたのはハッキリ記憶していたが、当時の立派な冊子を買い求めていて、プログラムを改めて見るまでは他の曲目の記憶は無かった。20数年前のプログラムを再び読んで感慨深いものがある。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「第31番」、「第32番」は当時の自分の聴き慣れた曲目には入っていなかった。今なら、鑑賞能力は少しは上がっているだろうが、その時はベートーヴェンのタイトル付きのソナタぐらいしか知らなかったのである。とにかく、アシュケナージやロストロポーヴィチが聴けたと感激していた頃であった。

2度目はイタリア・パドヴァ管弦楽団を率いてKitaraに登場した04年6月。この時は「モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番」、「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番」で彼の弾き振りを堪能した。この時にサイン会があって感想を英語で述べると、顔を上げて聴いてくれ、”Thank you so much.”と答えてくれた。彼の優しさに溢れた応対ぶりが今も鮮烈な記憶として脳裏にある。この時の思い出を12年11月のブログに書いた。(*この頃は自分のブログが英訳される場合に不安があって、ブログの一部を英語で書き綴った。英語で書いたのはこの時だけである。)

3度目は14年3月、長男ヴォフカとのピアノ・デュオ・リサイタル。シューベルトとブラームスの2台ピアノ作品のほかに、「春の祭典」や「「だったん人の踊り」のオーケストラ曲が2台ピアノで演奏されて興味深かった。息子に想いを寄せる親の愛情は微笑ましいと思うと同時に親ばかぶりも見て取れた。この時もサイン会があったと思うが、偉大な芸術家の聴衆を大切にする気持ちが伝わってきたのを覚えている。

今頃Kitara大ホールでのリハーサルの最中かも知れない。今週の札響定期演奏会が待ち遠しい。

※[追記] 元北海道新聞記者で北海道の音楽事情に詳しい前川公美夫さんが札響定期演奏会のプログラムに連載記事を書いている。今月11月号によると、アシュケナージは1970年の札響特別演奏会で札響と共演して「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番」を弾いたと書かれている。当時の札響の指揮者はペーター・シュバルツで1970年の札響定期にはアルゲリッチやホリガーなど現代の偉大な音楽家を招いていて外国人指揮者ならではの手腕を感じていた。
今回の前川さんの記事で1970年はベートーヴェンの生誕200年に当たることに気付いた。大阪万博が初めて日本で開かれ、東京オリンピック以来の日本の国際的イヴェントとして世界からも注目されていた。(1966-67年にアメリカ留学中でアメリカの新聞でも話題になっていたので、この辺の事情は知っていたつもりであった。)1970年は日本に、外国のオーケストラや音楽家が大挙して訪れた年として知られている。ジョージ・セルが5月にクリーヴランド響と札幌を訪れた時に聴いた一生忘れられない思い出もある。今まで1970年を大阪万博との繋がりでばかり考えていた。
なぜベートーヴェンとの繋がりが思いつかなかったのか不思議な気がする。当時は英語教育を中心に生活していたのだから当然かもしれない。
前川さんによるとシュバルツは1970年にベートーヴェン生誕200年を記念して全交響曲と序曲、協奏曲による6回の「札響特別演奏会 ベートーヴェン・チクルス」を行なったと言う。その年の第4回でアシュケナージが協奏曲を演奏した思い出が綴られていた。

*2001年チェコ・フィルを率いての札幌公演は聴かなかったが、コンサートがあったことは思い出した。
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クラウディオ・アバド&ジョージ・セルの初来日公演

クラシック音楽ファンでクラウディオ・アバドの名を知らない人はいないと思う。アバドは昨年1月に逝去した。惜しまれて亡くなる指揮者は数多くいるが、彼ほど仲間の音楽家から敬愛された指揮者はいなかったのではないだろうか。
1990年、アバドはカラヤンの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督に迎えられた。2002年までの在任中、世界の指揮者の頂点に立つ活動を展開した。40代後半からECユースオーケストラやグスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラを設立して世界の様々なユースオーケストラ設立の先鞭をつけ、ベルリン・フィル芸術監督辞任後も後進の育成に力を注ぎ、その音楽作りと共に新しいタイプの巨匠と称されていた。

Claudio Abbado(1933-2014)はイタリア・ミラノの音楽一家に生まれ、ヴェルディ音楽院で作曲とピアノを学び、ウィ-ン国立音楽アカデミーで指揮をスワロフスキーに師事。63年ミトロプーロス国際指揮者コンクールに優勝。68年~81年の間、ミラノ・スカラ座首席指揮者、同音楽監督、同芸術監督を歴任。79-83年ロンドン響首席指揮者、82-85年シカゴ響首席客演指揮者、86-91年ウィ-ン国立歌劇場音楽監督を歴任。90-02年ベルリン・フィル芸術監督。03年からルツェルン祝祭オーケストラ首席指揮者兼芸術監督を務め、14年秋には来日公演と東日本被災地訪問が予定されていた。04年にモーツァルト管を設立して亡くなるまで現役として意欲的に活動した。、

私はアバドの演奏会を聴いた記憶はあったが、どの演奏会で聴いたのかが不明であった。69年4月~88年3月まで旭川に住んでいたが、オペラを観たりコンサートを聴くため偶に札幌に来ていた。
旭川在住時の荷物から音楽関係の書類が出てきて、最近やっと証拠が見つかった。アバドがウィ-ン・フィルを率いて1973年3月20日~4月9日まで日本ツアー、9都市13公演を行っていた。札幌は最終日の4月9日。会場は71年に開館した北海道厚生年金会館。曲目は「ジュピター」と「英雄」。残念ながら、この時のことは記憶に残っていない。
その時期は職場も新学期の始まる忙しい頃である。始業式・入学式が終って夜のコンサートに今は亡き音楽好きの同僚に誘われて聴きに来たらしい。当時はアバドの名は知らなかったし、自分から積極的に行動していなかったと思う。彼とは度々札幌までコンサートを聴きに来たことが懐かしく思い出される。
(*アバドは1971年からウィーン・フィルの客演指揮者の任にあったのを把握していたら迷うことは無かったかも知れない。なお、ウィ-ン・フィルは1933年から常任指揮者を置いていない。)

札幌コンサートホールKitaraが開館した97年10月10日に初めてウィ-ン・フィルを聴いたと思っていた。この時の指揮者はハイティンクで、演奏曲目は「シェ―ンベルク:五つの管弦楽曲」と「ブルックナー:交響曲第7番」で聴き慣れない難しい曲だった。振り返ってみると、ウィ-ン・フィルの弦楽器の美しさは今でも脳裏に残っている気がする。18年前の演奏がどれほど理解できたのかは別として、音楽を鑑賞する心の余裕が鑑賞後の記憶に大きく関わっていると思える。

ベルリン・フィルのCDはカラヤン指揮のものは多く所有しているが、アバド指揮のCDは少しだけである。CDも現在千枚に達したが、一番最初に購入したCDが「アバド指揮ベルリン・フィル、五嶋みどり演奏による「チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番」で思い出の多い1枚(1998年12月購入)。チャイコフスキーの「悲愴」はアバド指揮シカゴ響で何度も聴き親しんだ。アバド指揮ベルリン・フィルでポリーニの「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番・第5番」も懐かしい。

この機会にクリーヴランド管弦楽団をアメリカ五大交響楽団の一つに育て上げたジョージ・セルについても書いておきたい。
セル(1897-1970)はハンガリー・ブタペスト生まれ。3歳でウィ-ンに移り、ウィ―ン音楽院でピアノ、作曲などを学んだ。1908年、ウィ―ン響と共演してモーツァルトのピアノ協奏曲でデビュー。14年、同響を指揮し、さらに同年ベルリン・フィルを指揮して自作品を発表。24年にベルリン国立歌劇場の第1指揮者、29年にはチェコ・フィルの音楽監督などを歴任し、セントルイス響、スコティッシュ管などに客演。39年にオーストラリア演奏旅行の帰途、第2次世界大戦勃発のためアメリカに渡り、帰化。戦後はNBC響、ニューヨーク・フィルなどを指揮。46年にクリーヴランド管の音楽監督に就任して同管を世界的水準のオーケストラに仕上げた。

1970年は大阪万博が開かれ世界的なオーケストラや音楽家が日本を訪れた年であった。この年の5月25日、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団が札幌でも公演を行った。会場が忘れもしない「中島スポーツセンター」。2300人収容のホールが完成していなかったためであろう。「特別なコンサート会場」と「帰りの列車で一緒になった音楽仲間の語らい」で思い出に残るコンサートとなった。セルがアメリカに帰国後の7月30日に逝去のニュースが入って衝撃を受けた。 そんなこともあって、この時のコンサートは忘れ難いものになっている。
演奏曲目は「モーツァルト:交響曲第40番」、「シべリウス:交響曲第2番」他。

※2010年にGEORGE SZELL “LIVE IN TOKYO 1970” (札幌公演と同じプログラム)/[ドヴォルザーク:交響曲第9番、スラヴ舞曲]のDISC2枚が発売されているのが判って手に入れた。

※1970年にマリア・カラスやリヒテルも札幌で公演していたことを知った。カラスが来札していた時期に、彼女と交際していたジュゼッペ・ディ・ステファノが旭川で佐藤陽子と共演。佐藤は当時ヴァイオリニストとして有名であったが、この時はステファノが折紙をつける歌手として出演した。世界で名高いテノール歌手が旭川に来演したのが嬉しくもあり、大々的な宣伝もなく何となく不思議な思いをしたのを覚えている。

[追記]
 1973年のウィ-ン・フィルの来日記念プログラムに若杉弘が「アバド讃」の文を載せていた。1963年のミトロプーロス国際指揮者コンクールにおけるエピソードを綴ったものである。コンクール参加者の一人が急性盲腸炎になり、決勝出場を断念して手術の必要があった。若杉は入賞しなかったが、仲間たちと病院に見舞いに行った。授賞式で優勝賞金をもらったアバドは、他の入賞者と計らい、「彼も出場していたら入賞して賞金を手にしていたかも知れない。俺たちの賞金を出しあって彼の分の賞金を作ってやろう。」と言って、病院に届けたと言う。
合宿同然のコンクール期間中、参加者全員が国籍の壁を越えて和気あいあいの雰囲気の中で生活したと言うが、アバドの人間性が伝わるエピソードの一つと言えよう。
 ※若杉弘(1935-2009)は読売日響常任指揮者(72-75)、ケルン放送響首席指揮者(77-83)、ザクセン州立歌劇場及びシュタ―カペレ・ドレスデン常任指揮者(82-92)、都響音楽監督(85-95)などを歴任。びわ湖ホール芸術監督(96-07)を務め、新国立劇場の芸術参与を経て、07年からオペラ部門芸術監督に就任したが任期半ばで他界。日本のオペラ界の重鎮だった。








シャルル・デュトワとPMF

昨夜のNHK・Eテレ「クラシック音楽館」でシャルル・デュトワ&NHK交響楽団による定期公演を聴いた。プログラムの前半は「武満徹:弦楽のためのレクイエム」、「ベルク:ヴァイオリン協奏曲」。私が興味を抱いたのはベルクの曲。渡辺玲子のCDデビュー曲でCDは持っているが数回聴いただけ。直ぐには親しめない曲で、生の演奏会で聴いた経験もない。演奏者のアラべラ・美歩・シュタインバッハ―が2007年のネヴィル・マリナー指揮札幌交響楽団と共演してメンデルスゾーンの協奏曲を弾いたのを記憶していた。演奏前に曲の説明があって曲の理解に役立った。彼女は説得力のある心揺さぶる演奏を展開してレクイエムの雰囲気が味わえた。
定期演奏会では2曲とも人気のある曲とは言えないが、デュトワはN響との客演指揮で敢えて演奏曲目に選んだ。意外だったのはメインの曲に「新世界交響曲」を選んだこと。インタヴューに対する彼の説明で選曲の理由が解った。指揮者として新しい曲に挑戦したいが、前半に鑑賞が難しい曲を演奏したので、後半は聴衆に親しみがあり、心に響きやすい人気のある曲を選んだと率直に語った。N響とは15年ぶりの演奏曲であったようだ。

デュトワはモントリオール交響楽団を世界のメジャー・オーケストラに育て上げた後、N響の音楽監督を務め、思いがけなくPMF芸術監督として札幌を訪れてくれた。この機会に偉大な指揮者としての彼の功績を振り返ってみたい。

Charles Dutoitは1936年、スイスのローザンヌ生まれ。ベルン交響楽団(67-78)、エーテボリ交響楽団(76-79)の首席指揮者を経て、モントリオール交響楽団(78-02)とフランス国立管弦楽団(91-01)の音楽監督、96年にNHK交響楽団常任指揮者、音楽監督(98ー03)を歴任。その後、フィラデルフィア管弦楽団首席指揮者・芸術顧問(08-12)、09年にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者・芸術監督に就任。

デュトワはN響音楽監督在任中の2000年~2002年の3年間、PMF芸術監督を務めた。2000年の芸術監督はマイケル・ティルソン・トーマスとの二人体制だったが、01・02年はデュトワのみ。
2000-2002年の3年間、PMFのプログラムにN響も加わった。デュトワが指揮したPMFプログラムは次の通り。

①2000年7月17日(月) 19:00  N響演奏会 Kitara
〈演奏曲目〉プーランク:オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲
       ドビュッシー:夜想曲
       プロコフィエフ:交響曲第3番
デュトワの演奏を初めて聴けると言うより、その指揮ぶりを生で観れた印象は何となく残っているが、演奏曲目の印象は15年経った今や殆ど記憶がない。

②2000年7月22日(土)Kitara, 23日(日)芸術の森野外ステージ
PMFオーケストラ演奏会
 〈演奏曲目〉カーニス:ムジカ・セレスティス
       シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番(独奏:シャンタル・ジュイエ)
       ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ぺトルーシュカ」
       ラヴェル:ヴァルス
  *カーニスはレジデント・コンポーザー。両日とも聴いていないが、ヴァルス意外は曲に魅力がないと思ったのだろう。

③2001年7月8日(日) 19:00 N響演奏会  Kitara
 〈演奏曲目〉ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム
       ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(ピアノ:小山実稚恵)
       ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
 ブリテンの曲は紀元2600年(西暦1940年)を祝う日本政府の委嘱で作曲されたが、いきさつがあって日本での初演は1956年のブリテン指揮N響による演奏。珍しくて興味深かった。華やかなピアノ演奏が魅力的だったし、この時のことは比較的に良く覚えている。

④2001年7月11日(水) 19:00 N響演奏会  Kitara
 〈演奏曲目〉武満徹:弦楽のためのレクイエム
       リーバーマン:ピアノ協奏曲第2番(ピアノ:スティーヴン・ハフ)
       チャイコフスキー:交響曲第4番
 リーバーマンはレジデント・コンポーザー。曲は1992年に完成というから聴いてみないとどんな曲か想像もつかない。

⑤2001年7月14日(土)Kitara、15日(日)芸術の森
 PMFオーケストラ演奏会
  〈演奏曲目〉R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
      ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲(ピアノ:スティーヴン・ハフ)
      ベルリオーズ:幻想交響曲
 幻想交響曲はシャルル・ミュンシュ指揮ボストン・交響楽団のCDで聴いて親しんでいた。デュトワが得意とする曲で、ウィ-ン・フィル首席奏者も加わって迫力に満ちたドラマティックな演奏が展開され非常に楽しかった。今でもその時の様子が眼前に浮かぶ。

⑥2001年7月20(金) Kitara、 21日(土) 芸術の森
  PMFオーケストラ演奏会
  〈演奏曲目〉ラヴェル:スペイン狂詩曲
        ドビュッシー:「海」~3つの交響的素描~
        ストラヴィンスキー:春の祭典
 デュトワらしい選曲。

⑦2002年7月9日(火) 19:00 N響演奏会 Kitara
 〈演奏曲目〉ココリアーノ:交響曲第1番
       ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(独奏:ジョシュア・ベル)
 レジデント・コンポーザーにジョン・ココリアーノが招聘され、アジアの若手作曲家育成のために新設されたコンポジションコースの指導に当った。ココリアーノは映画「レッド・ヴァイオリン」のサウンド・トラックを作曲し、アカデミー賞作曲賞を受賞した。同映画音楽の演奏を担当したのがジョシュア・ベル。この音楽映画を実際に観ており、ベルは人気のあるヴァイオリニストであった。その後、来日の情報がなかったが、彼は室内楽や指揮など多方面で活動を行ない、現在はアカデミー・オブ・セント・マーテイン・イン・ザ・フィールズの音楽監督として活躍しているらしい。そのうち来日の機会があるだろう。

⑧2002年7月20日(土) 19:00 PMFオーケストラ演奏会 Kitara
 〈演奏曲目〉ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」
        プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(ピアノ:マルタ・アルゲリッチ)
        R.シュトラウス:アルプス交響曲
アルゲリッチのコンサートはPMFフレンズ会員対象の先行発売でもチケットが買えず、PMF開幕前には完売という状況だった。後にも先にも彼女のコンサートを聴いたのはこの時だけだった。大ホール3階の一番後ろの座席からの鑑賞はワクワクして興奮した。彼女は1970年1月に札響と共演して同じ曲を演奏していた記録がある。プロコフィエフの第3番は今では聴き慣れた曲になった。アルゲリッチの印象が強烈で他の曲のことは余り覚えていない。

シャルル・デュトワのPMFの記録は札幌開催のコンサートのみ。私が聴いた演奏会は①、③、⑤のKitara、⑦、⑧の5回である。彼の軽やかな指揮ぶりで、ドイツの重厚な音楽とは違ったフランス風の色彩に富んだ音色が楽しめた印象が残っている。

音楽とは直接に関わりのない話だが、ベルン響の首席指揮者に就任した頃にアルゲリッチと結婚している。1970年4月、読売日響の公演と大阪の万博記念公演の指揮で日本デビュー。以降、73年と74年に来日。74年3月の来日の折にアルゲリッチと喧嘩して、彼女は公演をキャンセルして離日。同年、離婚した話はよく知られている。その後、音楽の面では協調して共演を重ね、プロコフィエフやバルトークの協奏曲を録音。モントリオール響と二人が共演した「ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番」のCD(1998年)も手元にある。
札幌での共演は1回のみであったが、PMF2002では栃木、横浜、東京でも同じプログラムで共演した。

78年にモントリオール響のシェフになってから、スイスのフランス語圏出身のデュトワはカナダのフランス語圏のオーケストラと色々な面で相性が良かったと思われる。オーケストラが急成長したと言われる。80-81年シーズンにミラノ・スカラ座管、ボストン響、ベルリン・フィルにデビュー。その後、ニューヨーク・フィル、ロンドン・フィル、フィルハーモニア管、バイエルン放送響などに客演。91年にはマゼールの後任としてフランス国立管の音楽監督に就任した。デュトワがN響を初めて指揮したのが87年。96年にシェフに就任してからは、ドイツ音楽が得意であったN響にフランス音楽を多く演奏する機会を作って、レコーデイングや海外公演の機会を増やした。デュトワのお蔭でN響は日本国内だけでなく国際的名声を高めたのではないかと思う。 

パーヴォ・ヤルヴィが新しくNHK交響楽団の新しい常任指揮者に就任することで日本のオーケストラが一層活気づくことを期待したい。また、PMFも今年からゲルギエフとジンマンという二人の巨匠を迎えて益々発展していくことを切に望む。

ブロムシュテットのN響公演~モーツァルトとチャイコフスキー

スウェーデンの世界的指揮者ブロムシュテットがNHK交響楽団と共演して9月に3回の定期公演を行なった。その公演の模様がNHK日曜日Eテレ番組《クラシック音楽館》で3週に亘って放送された。モーツァルトとチャイコフスキーの各々最後の交響曲3曲の組み合わせの演奏会で第1週目の放送で興味を引いた。


〈第1787回定期公演Bプログラム〉
  モーツァルト:交響曲第39番、 チャイコフスキー:交響曲第4番
〈第1788回定期公演Cプログラム〉
  モーツァルト:交響曲第40番、 チャイコフスキー:交響曲第5番
〈第1789回定期公演Aプログラム〉
  モーツアルト:交響曲第41番《ジュピター》、 チャイコフスキー:交響曲第6番《悲愴》

放映に当たって指揮者へのインタヴューもあって興味を掻き立てられた。ブロムシュテットに対してはN響への客演指揮の様子をテレビで観たりして外見的に今は亡きサヴァリッシュに似ている感じがして親近感を抱いていた。彼らの札幌での公演をそれぞれ2回聴いたこともある。

ヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)は1927年アメリカでスウェーデン人の両親のもとに生まれ、29年に家族と共にスウェーデンに移住。ストックホルム王立音楽院、ジュリアード音楽院などで研鑚を積み、指揮法はマルケヴィッチやバーンスタインに師事。54年にノールショピング響の首席指揮者となり、オスロ・フィル、デンマーク放送響、スウェーデン放送響の首席指揮者を歴任し、ドレスデン国立歌劇場首席指揮者(75-85年)としてオペラでも活躍。85-95年にはサンフランシスコ響音楽監督、96-98年には北ドイツ放送響首席指揮者、98-05年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管首席指揮者として活躍。
02年と05年の2回、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管を率いての日本ツアーで札幌公演を行っている。02年は「モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲」と「ブルックナー:交響曲第5番」を指揮。05年は「バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番」(ヴァイオリン独奏:フランク・ペーター・ツィンマーマン)と「ベートーヴェン:交響曲第3番《英雄》」。親しみ易い曲の演奏で2回目のKitara公演が強く印象に残っている。

ブロムシュテットはN響客演が多く、NHK交響楽団名誉指揮者になっている。87歳の高齢とは思えない若々しい指揮ぶりと、リハーサルでの楽団員に対する熱心で真摯な指導法に大きな関心を抱いた。

モーツァルトとチャイコフスキーのカップリングは意外性があって面白かった。ブロムシュテットによると、二人の作曲家には共通点があって、曲がエモーショナルで情熱的であると言う。インタヴュワーに“モーツァルトは悲劇的な感情を「ト短調」で表現した”とメロディを口ずさみながら、「第40番」について説明をしていた。オーケストラ団員にも具体的に歌いながら指示をしている様子は作品に対する解釈を演奏者と共有する態度がうかがえた。作曲家の真意を追求するために楽譜を読み取り、楽譜通りに演奏する大切さを説いていた。チャイコフスキーの「第5番」は楽譜に凄く細かい指示がされていると言う。チャイコフスキーは感傷主義的な作風なのでロシア人には余り好まれなかったとも付け加えた。(ロシアではチャイコフスキーはブラームスに似ていて西洋音楽に近いので、ロシア国民楽派の流れから外れているとして日本や欧米におけるような人気のある偉大な作曲家として位置づけられていないという話は聞いたことがある。) とにかく、モーツァルトとチャイコフスキーの音楽の共通点を「エモーショナル」と強調していたのが印象的であった。

昨日のリハーサルでも楽譜の大事なところで歌いながら説明して、具体的な指示を出していた。「悲愴」の演奏で“トランぺットはヨーロッパでは「死」を意味する”と言って、トランペット奏者から指揮者が望む音を引き出していた。トランペット首席も有益な指示に感動したと感想を述べていた。

ブロムシュテットは譜面の中で作曲家の感情を読み取る音楽作りを大事にしているようである。演奏家への尊敬の念を忘れずにオーケストラ全体で音楽作りをしようとしている姿に感動さえ覚えた。今まで多くの指揮者を観てきたが、リハーサルの様子が今回映像で観れて大変興味深かった。




ロリン・マゼールPMF2014来日公演不能

PMF2014が7月12日札幌で開幕する。首席指揮者に予定されていたロリン・マゼールが健康上の理由で来日できなくなったというメールを昨日の午後にPMF組織委員会から受け取った。かなりのショックである。ほぼ一日経って平常心を取り戻しつつある。

5月のマゼール指揮ボストン交響楽団の来日公演も指揮者がシャルル・デュトワに変更される情報を4月に得ていたので心配はしていた。

03年4月のKitaraでの公演以来、マゼールの魅力に惹かれている。昨年4月のミュンヘン・フィルの札幌公演の折には彼のプロフィール、Kitaraでのエピソードなどを、かなり長いブログに書き留めた。私の好きな指揮者の一人である。

今回は国際音楽祭パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)も25回目の記念の年に当たり大指揮者の登場を心待ちにしていた。マゼールの出演する3公演のチケットを購入していた。代役はジョン・ネルソン(1941年生まれのアメリカ人)と佐渡裕。

ドクター・ストップによる不参加という事態で止むを得ない。1930年生まれの84歳の高齢でもあり、今後の活動を考慮して無理をしないのが賢明であろう。マゼール自身が一番残念に思っているに違いない。療養を続けて、一日も早い回復を祈る。彼は、いつか再びKitaraのステージに立つことを信じている。

プロフィール

fsuterry

Author:fsuterry
年間60回以上札幌コンサートホールKitaraに通うクラシック音楽ファン。クラシック全般に関心があるがオーケストラ・ピアノ曲が特に好きである。 

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