アメリカ合衆国のクリスマスと正月

1961年大学卒業後に全日制課程が設立された十勝の高校に勤務して第1期生を送り出したのが1964年3月であった。英語教員として一生を過ごすと考えていた頃、一度は海外留学をしたいと決意していた。国際ロータリー財団が世界で100名の大学院課程で学ぶ学生の募集をしていることを知った。(*国連で活躍した緒方貞子さんは1961年、日本で2人目の奨学生。)当時の日本のロータリー地区は13に分かれ、東日本と西日本で2年交代で留学生が数名派遣されていた。北海道地区は1名で選考試験は65年に数ヶ月をかけて実地され、同年秋に幸い選考試験に合格した。Rotary International の合格通知が来てからの大学の入学手続きを含めてすべて自分ですることになっていた。第5希望までの大学(1国が3つまで)を記入し、私は第1希望の米国フロリダ州立大学になった。当時は海外に出るためにはドルや円を持ち出すことに極めて厳しい制限があった。(円は2万円、ドルは500ドル以下と決まっていた。)外国為替銀行は東京銀行だけ、レントゲン写真は北海道大学病院で撮ったものを持参と出入国が厳しかった。当時で$4,000(*1ドル360円)が3回に分けて支出されたと記憶している。海外に出るのに3度は日本銀行札幌支店に出向いた。夜行列車で札幌に来ていた。 アメリカ領事館やHokkaido International School で英語の総合的な試験も受けに来た。若くて目的意識がしっかりあったから出来たことで今ならできそうにない。

1996年8月末に羽田空港を出発。50年前にはサンフランシスコやロスアンゼルスへの直行便はなかった。ハワイかアンカレッジで給油をしなければならない時代だった。50年も経つと国の事情もいろいろ違う。学問だけでなく国際親善のためにロータリークラブの招待があれば出席して30分程度のスピーチをすることになっていた。1年と決められた時間の中で自分にできる掛け替えのない活動が出来た。

今回はアメリカ市民が毎年クリスマス休暇中に外国人留学生を招く“International  House”について書き記してみたい。
50年前の出来事は詳しく覚えていないのは当たり前のことであるが、留学中は日記をつけていて帰国後は読む暇など無かった。3年ぐらい前に初めてノート数冊を通して読んだことがある。

1966年12月17日~1967年1月2日まで全米7つの家が解放された。人種、国籍、性別、独身、既婚、宗教に関わらず大学生、大学院生に呼びかけて開かれた家。私は19日にフロリダの隣のアラバマ州モービル(Mobile)まで長距離バスに乗って出かけた。
Mobileまでの交通費は自費でそれ以外は全て無料。都市の中心部にある教会関係の施設に宿泊。ハウスでの過ごし方は日曜日を除いて自由。行事の参加も各自の自由。ハウスでの滞在予定も参加者の自由。50名の定員は入所前に満員になっていた。
2週間の日程のうちクリスマスの期間の数日だけ参加したり途中で帰るのも自由ということで気軽に過ごせる自由度の高いアメリカならではの“International House”。

外国人はニカラグア、ナイジェリア、レバノン、香港、タイ、台湾、韓国、日本、オーストラリア、ドイツ、パキスタン、アフガニスタン、エジプトなど。
お世話をしてくれるアメリカ人は教会関係者。レストランやボーリング場などの経営者も無料で遊ばせてくれたりした。市内の有力者が大邸宅を案内してくれることもあった。昼食は街でピザやシー・フードを楽しむこともあった。20名程度の外出で留学生同士の交流もできるが、話が合う人は限られる。

24日午後は全員で太平洋戦争で活躍した戦艦アラバマの船内見学。モービル湾沿いを公園にして観光地化する計画のようであった。夕食は全員が個人の家に招待されて食べたdinnerはおいしかった。皆でChristmas songsを歌って楽しい時を過ごした。
日記によるとモスクワ放送でアメリカ人とカナダ人に向けて“Merry Christmas and Happy New Year”と呼びかけられた。

25日には多分2人づつペアで市内の各家庭に招かれて特別なDinner。この時は台湾人と一緒にturkeyを食べた。ホストが七面鳥の肉にナイフを入れて一人づつ皿に盛っていく様子に見入った。料理もとてもおいしかった。ホステスが“Did you bring a cold weather?”とか“Would you care for a cup of coffee?”とかいろいろ気を遣って場を和ませてくれた。家族を交えたChristmas Dinnerを体験出来て良かった。
7時から教会での夜の礼拝に出かけて4ヶ国の留学生が各々の国でのクリスマスの過ごし方を語った。9時半ごろハウスに戻って、またディナー・パーティがあったが、“Can I be excused?”と言って床に就いた。

26日はバスで全員Bellingrath Gardensを見学して記念撮影。木々が林立しする広大な庭で日本庭園もあったがお世辞にも立派とは言えなかったが世界的に有名だと説明を受けた。春は一面花できれいなようである。現在はおそらくライトアップされて見事な庭園になっていると想像される。

27日は貿易センターを見学すると実験室に7ヶ国語のテープが用意されていて、日本語のテープもあり日本の貿易面での重要な役割を目にした。日本紹介の雑誌は近代の日本を伝える良い記事で百科事典の古い記事とは比べ物にならない印象を受けた。
この日の夕方にはレバノンの留学生と一緒にディナーに招待された。彼は米国滞在2年余で巧みな英語を話しjokeも自由自在。お父さんが元大使で家柄も良いらしかった。食欲も旺盛でどんどん食べていた。ラマダンの時期に当たっていた。1日1食で夜に3食分を一度にとる習慣。この経験があって私はラマダンは12月末だとその後も十年ほどは思い込んでいた。毎年、時期が少しづつずれて変化するのを知ったのはかなり後年になってからだった。“ラマダン”という言葉に出会うといつもレバノンの留学生を思い出す。

招待された家庭は裕福な家庭が多いこともあって子どもたちは私立の有名な学校や大学に通っていたり、進学を目指しているようだった。我々への対応も明るく気持ちの良いものだった。子どもたちはどこでも可愛くて家族愛に包まれて家庭環境が良い感じがした。
ハウスを後にした学生も増え始めた。28日は州立造船所見学の予定だったが忙しい日程が続いたので、プランには参加せずにハウス内にとどまった。日本の留学生の奥さんと話をしていると黒人のコックさんが話に加わってきた。割合わかりやすい英語で“I like both of you.” 日本人が他の外国人に比べて自己主張が少なくて控えめなところに気づいていたようであった。彼の話ではここMobileでは他の地方と違ってcolored peopleのsegregation(黒人差別)が少なくてintegration(人種差別撤廃)がほぼ完全に行われているという信じがたいが興味深い話をしてくれた。教会の建物の料理人としての彼の特別な環境から出る話かなと思った。
※50年前の米国南部では学校、レストラン、トイレなどは白人専用と黒人専用に分かれていた。当時のフロリダは州立大学が2つしかなかった。白人だけが通える大学だった。2万人が学ぶ大学の広い構内(北海道大学よりはるかに広いキャンパス)で黒人の姿を見たことはなかった。

29日の午前中はテレビ局へ。見学と思っていたらドイツ・韓国・イランの留学生と一緒にテレビ出演。生放送でのインタヴューを受けた。午後は韓国1人、イラン3人とともにモービル・ロータリークラブの例会に出席して帯広ロータリークラブ(*国際ロータリー財団奨学生への推薦ロータリークラブ)のバナーと交換した。3日前のディナーに招待してくれた人がロータリアンで例会へ誘ってくれていた。この日は車酔いで疲れも出て夕食はとらずに頭痛薬をもらって早めに床に就いた。

1966年の最後の日は日本と違って大晦日の実感が湧いてこなかった。台湾の留学生と一緒に招かれた家庭でディナー。夕食後に彼らの娘2人、息子1人とともにNew Year's Eve Worship Serviceに出かけた。今年は天候に恵まれない年の暮れ。悪天候のせいもあって出席した人の数も少なめだった。12時にお祈りが終わると人々は口々に“Happy New Year”と互いに挨拶を交わしたが何となく物足りなかった。牧師の“Let us pray for World Peace”という言葉が強く心に響いた。
連絡の行き違いもあり、その後、別のご夫妻のお宅に世話になった。お宅に着いてレコードを聴くように勧められた。ベートーヴェンの第九の第4楽章とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてベッドに就いたのは1時半ごろ。(*この日記を読んで当時の記憶が蘇ってきた)。

アメリカの正月の行事はカレッジ・フットボールとバレード。Cotton Bowl (テキサス州ダラス)とGator Bowl(フロリダ州ジャクソンビル)のテレビ中継。現在はどうなっているか知らないが伝統は崩れていないのではと思う。
国民が家庭で祝う行事は特にないのではないか。

昨夜は遅く寝たので目覚めたのが8時半過ぎ。barのような場所での朝食。フロリダ滞在中、朝食用と夕食用の部屋が別になっているお宅も何軒か見た。New Year's Dinnerに今朝到着した中国人2人と招かれたお宅へ。特別な正月料理はないようである。supper に black and white beansを食べるのを習慣にしていると語ってくれた婦人もいた。健康と金運につながるそうである。

雨模様の毎日で昨日も今日(1月2日)も雨。午前10時半のバスでモービルを出発し、タラハッシ(フロリダの州都)には午後8時に到着。2週間のChristmas Holidaysは楽しかった。アメリカ人のhospitalityは素晴らしかった。50年後に日記を読み返して人の心の温かさを改めて感じた。
1年間のフロリダ滞在中に南部旅行をしたり、帰国の途中にワシントン、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、デトロイト、ロスアンゼルスなどでも得難い体験ができたことを幸せに思う。





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カセットテープで聴く音楽で過去の思い出が蘇る

今日、家でクラシック音楽を聴くのはCDかEテレを通してである。ラジオやSP・EPレコードで聴き親しんだのは5・60年前のひと昔になる。LPレコードを定期的に購入したのが40年前であるが、日常的に習慣化して聴けるようになったのは20年くらい前からである。通勤途中のカーステレオで聴くためにカセット・テープを数本購入して、「ヴィヴァルディ:四季」や「ショパン:ピアノ協奏曲」などを聞き流していた時期もあった。70年代にLPは60枚以上購入していた。ウォ―クマンの普及で90年代にはカセットで「ホームクラシック名曲集」、「珠玉のピアノ名曲集」などを買い求めて気軽に聞く習慣をつけた。BGMのようなつもりで聞いていて耳に残る名曲が数多かった。CDを本格的に買うようになったのは1999年以降のことである。

数年前にカセットも使えるミニ・コンポが故障してからはCD専用のプレーヤーだけになってしまっていた。カセットにはCDで求めるのが難しい小品が結構多く収録されている。今年はカセットテープを聴く機会を増やすために1月にコンパクトラジカセを購入した。Kitaraに出かける機会が激減した2月から3ヶ月余りの期間でかなり集中的にカセットで名曲を聴いている。
今まで結構聞き流していた曲に耳を澄ますと新鮮に聞こえる。メロディは何となく耳にしていても作曲家の名をはっきり覚えていないような曲もある。イヴァノヴィッチ、モンボウ、リヒナーなどの名はすっかり忘れていた。羽田健太郎が解説した初心者向けの《ピアノフォルテ全10巻》は名演奏家による7・80年代の録音でCDより音はクリアでないが違った角度から楽しめる。30名以上のピアニストの中で半分くらいの演奏家の名は知らなかったが、アシュケナージ、アラウ、アルゲリッチ、ケンプ、コチシュ、チッコリーニ、バックハウス、ピリス、ブーニン、プレヴィン、ブレンデル、ベロフ、ラローチャ、ルイサダ、ロジェ、ワイセンベルク、ラベック姉妹などの著名なピアニストによる演奏はレヴェルが高いのではないかと感じた。Kitaraに出演したアーティストによる演奏はより身近に楽しめる気分になる。
ラベック姉妹は1970年代に旭川公会堂におけるコンサートで聴いたピアノ・デュオ。NHKクラシック音楽館で姉のカティアか妹のマリエルのどちらかがデュトワ指揮N響と共演していた様子を見て懐かしい想いに浸ったのは昨年のこと。今回も40年以上も前の状況を再び思い浮かべる機会となった。

今回改めてカセットを聴いてみて気が付いたことがある。チャイコフスキー作曲の「四季」は今までアンコール曲として数度聴いた曲。タイトルから4曲程度の組曲かなと思っていた。カセットに収録されていた曲は2曲。「謝肉祭」と「舟歌」はシューマンやショパンと紛らわしいタイトル。それぞれ「四季」より2月と6月。1月から12月までのロシアの詩を基に作った12曲から成る作品という。「舟歌 ト短調」は耳慣れたメロディでアンコール曲として弾かれた曲だと思う。2曲の演奏者ブリジット・エンゲラーは1990年のベルリン・フィル創立100周年記念演奏会にフランスからただ一人招かれ、ロストロポーヴィチや小澤征爾と共演して話題となったそうである。
近いうちにこの組曲のCDがタワーレコードで見つかれば手に入れたいと思う。

※昨日から時計台のボランティア活動を始めた。明日も含めて今月は時計台での活動を6回行なうことにした。Kitaraのコンサートには11日からスタートして5月は7回、6月は8回、7月は9回を予定している。整形外科病院でのリハビリもそろそろ終え体調を整えて予定通りに事が運ぶことを望んでいる。

“ありがとう”の言葉

米国・ボストンで開幕したフィギュア・スケート世界選手権の男子ショート・プログラムで日本の羽生結弦が見せた演技は凄かった。ショパンのバラード第1番の音楽をバックに見せる演技は正に至芸と言えよう。芸術とスポーツが融合したパフォーマンスは言葉で言い表せないほどの出来栄え。昨年から世界最高得点を立て続けに出しているが精神的にも重圧がかかる環境の中でパーフェクトに近い演技を行う彼の技術力と精神面の強さには感服する。
今日も演技終了後に言葉にした“ありがとうございました”(Thank you so much.)は観客に対する感謝の気持ちが表されている。(*口元を見て彼の言葉が分った。)得点表示の場面でもコーチにお辞儀をして感謝の言葉も伝えている。自分一人だけの成果ではないという想いの姿。偉大なスポーツ選手の範疇を超えた人間的な素晴らしさをYuzuru Hanyuから感じ取っている。

“arigato”の言葉を知っている外国人は今日では数多い。一昨年の南米旅行の折に空港で日本人旅行客に“arigato”と歓迎の意を口にした多数の空港職員。ブラジル出国の際に係官に“obrigado”(オブリガード)と言ったらビックリされた。(*私は外国旅行の折には簡単な挨拶言葉は現地の言語で対応している。)

日本では「ありがとうございました」の言葉は商店では当たり前に使われるが、役所で職員が使う言葉にはなっていないと思う。今日、訪れた札幌北区役所で対応に当たってくれたヴェテランの男性職員が所定の手続きが終った時にこの言葉を口にした。意外であったが役所の対応に変化を感じて嬉しく思った。

昨年秋、ひと月余り入院した札幌東徳洲会病院で看護師がごく自然に毎日病室を訪れた時に用事が終って口にする“ありがとう”の言葉に強い印象を受けていた。患者が医師や看護師に言う言葉としては当たり前でも、その逆は無いと思っていた。通院だけでは味わえない看護師さんたちへの感謝の思いを入院の度に感じるのは昔も今も変わらないと思う。言葉遣いは人の気持ちに影響を与える。お互いの人間関係を良くすためにも簡単な挨拶は状況に応じて使われるのは好ましいことである。

人間は感情の動物である。数日前に喜寿を迎えたばかりであるが、いろいろな場面に遭遇して学ぶことが多々ある。他人への感謝の思いの大切さを羽生選手を通して改めて知らされた。

ブログの再開に際して

10月中旬頃に体調が思わしくなくて、掛かりつけの内科医に診てもらった。心不全の状況にあることが判明して、紹介状を発行してもらい急遽総合病院に出向くと即入院と決まった。ボランティア活動や音楽鑑賞に時間を使っている場合ではなくなってしまった。
自覚症状がないうちに心筋梗塞にかかっていたことが判って驚愕したのが数年前のことだった。これまで特に心臓に異常は感じていなかったのだが、詳しい検査の結果、冠状動脈バイパス手術を受けることとなった。
手術後、順調に回復して2週間が経った今日午前、やっと退院の運びとなった。35日間の入院期間は長かった。

この間、オペラやコンサートなど10月は6回、11月は3回のコンサート鑑賞が出来なかった。幸い妻や親戚の者にチケットを有効に使ってもらった。10月札響定期のマイシートは札響に譲ることとした。残念だったのは、11月8日に札幌で初開催のクラシックソムリエ検定を受けれなかったこと。エントリー、シルバーの両方のクラスを受検するつもりであった。また、来年を期することにしたい。

妻は内田光子のピアノリサイタルに最も感激したようであった。それほど期待していなかった盲目のピアニスト梯剛之(かけはし たけし)のオール・ショパン・プログラムによるピアノリサイタルには感動して会場でCDを買い求めてきた。私自身、彼のリサイタルは99年、01年に続いて久しぶりに聴く予定であった。妻がCDプレーヤーを病室に運んでくれて3回通してショパン、リストの曲を聴いて気分転換を図れた。梯は生後1ヶ月で視力を失ったが、音楽の才能が花開いて、98年にはロン=ティボー国際コンクールで第2位、2000年にはショパン国際ピアノコンクールでワルシャワ市長賞受賞など輝かしい実績を収めてきたピアニスト。ここ数年、いろいろな心身の悩みを乗り越えて見事に復活した様子が円熟した演奏を通して伝わってきた。

親戚の者がKITARAをはじめて訪れる機会を得て、ピリス&メネセスのデュオ・リサイタルを聴いてホールの素晴らしさに圧倒されたようだった。今度はオルガンのコンサートも聴いてみたいと印象を述べてくれたのも良かった。今回のことでチケットを無駄にせずに札幌コンサートホールを身近に感じてくれる人が出たのは嬉しいことであった。

明後日の小山実稚恵「音の旅」に始まり11月も4回のコンサートチケットが手元にある。ブログを休んでいる間にも、連日毎月以上に私のブログにアクセスしてきている人たちがいるのには驚きを禁じ得ない。いつまで続くか判らないが自分の記録にとどめる意味もあって書き続けようと思う。



Kitaraのバースディ 18th Anniversary ~オルガン&ヴァイオリン&コーラス~

オルガン、ヴァイオリン、合唱の共演で祝うKitara18回目のバースディ

2015年7月4日(土) 15:00開演  札幌コンサートホールKitara 大ホール

オルガン/ マリア・マグダレナ・カチョル(第15代札幌コンサートホール専属オルガニスト)
ヴァイオリン/大平まゆみ(札幌交響楽団コンサートマスター)
合唱/札幌市立琴似中学校、手稲東中学校、西野中学校、北陽中学校

[Program]
〈オルガンソロ〉
 J.S.バッハ:前奏曲とフーガ ハ長調 BWV545
 ベートーヴェン:オルガン・トリオ第1番 ト短調
         笛時計のための5曲WoO33より メヌエット:アレグレット、アレグロ
 ハチャトゥリアン/カチョル編曲:バレエ音楽「ガイ-ヌ」より ワルツ
〈合唱とオルガン〉
 モーツァルト:モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 K..618
 木下牧子作曲/三好達治作詞:鷗
〈合唱とピアノ〉
 寺島尚彦:さとうきび畑
 中島みゆき/田中達也編曲:麦の唄
〈ヴァイオリンとオルガン〉
 ハチャトゥリアン/カチョル編曲:バレエ音楽「ガイ―ヌ」序曲
                バレエ音楽「ガイ-ヌ」より ヌーネとカレンの踊り
 ラフマニノフ:14の歌曲 作品34より ヴォカリーズ
 ガ―シュウィン:3つの前奏曲
 ヴエーバー:聖なるミサよりべネディクトゥス
 サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン 作品20
 シュタム:谷と丘の向こうに
 ハキム:奇想曲
〈ヴァイオリンと合唱とオルガン〉
 J.S.バッハ:カンタータ「心と口と行いと生活で」BWV147より コラール「主よ、人の望みの喜びよ」

マグダレナ・カチョルは2012年9月~2013年8月、Kitaraのオルガニストを務め、札幌だけでなく東京、京都などを含めて積極的な活動を展開したポーランド出身のオルガニスト。帰国後、ポーランド各地の演奏会に出演し、オランダ・フランス・イタリア・リトアニアなどの音楽祭にも参加しており、2年ぶりに来札した。任期中の「オルガン・サマーナイト・コンサート」で札響コンサートマスター大平まゆみと共演してお互いに意気投合。昨年3月にはルクセンブルグの教会で一緒にCD録音を行なったというほどの音楽仲間。

カチョルはKitaraのオルガンの音色の豊かさを存分に生かした幅広い演奏を繰り広げた。編曲も得意で聴衆の心を掴むプログラムを随所に見せた。ガ―シュウィンの曲はオルガンで演奏するのは難しいようだが敢えてチャレンジしたそうである。
任期中に中学生と共演する機会もあって今回のプログラムに合唱も加えたのではないかと思った。
約240名の合唱団は爽やかな歌声でレヴェルの高さを披露して大ホールを埋めた聴衆の拍手喝采を浴びた。

ヴァイオリンとオルガンの作品では聴き慣れた曲やメロディがホールに流れて、大平まゆみの人気もあって各曲の演奏後に拍手が起こり、アンコールの声も上がった。特に「ツィゴイネルワイゼン」は有名な作品で、弾きごたえのある長さの曲でヴァイオリニストの技量が発揮された。シュタムとハキムは初めて聞く作曲家の名前。現代曲なのだろうが、案外と親しめる作品。シュタムはカチョルが札幌にいた時に友人に彼の作品を勧められたと言う。彼女が帰国後に参加したドイツでのコンサートで彼に偶然会って、彼の作品を今回のプログラムに入れたそうである。

バッハの数多いカンタータの中で全10曲からなる第147番。第6曲と第10曲は同一曲だが歌詞を変えて歌われる。第10曲の歌詞の冒頭部分を取って呼ばれる作品。ピアノ曲や管弦楽曲としても親しまれている名曲。今回はヴァイオリン&合唱&オルガンの形式で美しい旋律が荘厳な曲となって聴衆の心に響いた。コンサートの最後を飾る感動的な演奏! ワン・コインで楽しめた素晴らしいコンサート。

1997年7月4日、札幌コンサートホール落成記念式典に参列してから、《Kitaraのバースディ》コンサートは「Kitara 開館5周年記念」、04年、06年、「Kitara開館10周年」、08年と鑑賞。前回は12年の「オリヴィエ・ラトリー・オルガンリサイタル」だったが、今回も印象に残る《Kitaraのバースディ》になった。17年7月4日の20周年記念プログラムが楽しみである。


 
プロフィール

Author:fsuterry
年間60回以上札幌コンサートホールKitaraに通うクラシック音楽ファン。クラシック全般に関心があるがオーケストラ・ピアノ曲が特に好きである。 

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