直木賞・本屋大賞受賞作「蜜蜂と遠雷」を読んで聴こえる音楽

現在はクラシック音楽鑑賞が最大の趣味ではあるが、映画も20年前から鑑賞機会が増えている。高校時代には読書にも親しんでいた。世界文学全集はかなり読んだ。大学に入ってからは専門の英語の勉強の合間に日本文学にも親しんだ。就職してからは気晴らしに松本清張の推理小説を新書版で100冊以上は読んだと思う。30年前は何百冊かの本は図書館に寄贈できた。100冊余りの世界文学全集を購入していたが積読で終わって、今年の初めに廃棄処分にした。シェイクスピアの原文の全集だけは未だ手元にある。読書の習慣は以前より減ったが、元々、文学賞で話題になった本はめったに読まない。10年ほど前には図書館から音楽演奏家に関する著書を借りて呼んでいた時期もあった。
近年は文庫本は読んでも新版の単行本は読まない。村上春樹の小説も文庫本として出版されてから読みだしている。例外的に新刊「小澤征爾さんと音楽について話をする」は発売当時に直ぐ購入した。村上春樹が音楽に詳しいことをこの本を読んで知って、彼の著書を読んでみる気にもなった。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はリストの「巡礼の年」のCDを買う動機にもなった。彼の著作には音楽史上で有名な曲が出てくることもあって最近はよく手にする。
村上の最新作「騎士団長殺し」も丁度読み始めたところである。

実はこのブログを書いてみる気になったのは、先日読み終えたばかりの恩田陸著「蜜蜂と遠雷」。直木賞・本屋大賞受賞作で国際ピアノコンクールの様子が生き生きと描かれていて大変面白かったからである。正に文学と音楽が結びつく様を満喫できた。一気に読めるが演奏場面が心に浮かぶように、500ページほどの単行本を持ち歩いて15分程度乗車の電車の中でも読み続けた。

フィクションとはいえ、この本の舞台は実在する浜松国際ピアノコンクール。昨年逝去した日本が世界に誇るピアニスト中村紘子が審査委員長として活躍し、世界的に評価の高い国際コンクールに成長している。1991年に第1回が開かれ、3年ごとの開催で世界的ピアニストがこのコンクールから巣立っている。私のブログでも第4回優勝者ガブリリュクと、オンデマンドで聴いた2012年第8回コンクールの様子を書き綴った。2015年の第9回大会優勝者ガジェヴのリサイタルも日本国内で開かれて彼の演奏会を堪能した。次回は2018年開催である。

登場人物の姿がまるで実在する人物に思え、弾かれる曲目が音を伴って聴こえてくる。第一次予選、第二次予選、第三次予選、本選が行われる2週間と彼らを取り巻く審査員の様子も描かれて興味を増す。
出場ピアニストの個性も豊かであり、著者の音楽鑑賞のレヴェルも一流である。音の広がりの解釈は人それぞれであろうが、達者な表現力で言葉も判りやすい。目次が演奏曲目になっているのもあって興味を惹くタイトル。
主要な出演者の予選、決戦での演奏曲目一覧が載っていたのもストーリー展開の予想が自由に描けてワクワクした。50曲ほどのうち8割は聴いたことのある曲でCDもある。書斎でCDをかけながら読み進める試みもしてみた。

ファイナルの演奏曲目ではCDをかけながら今までKitaraなどで聴いたライヴの様子も思い浮かべた。「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番」ではPMF2002 デュトワ&アルゲリッチの名演奏、「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番」では2007年マゼール&ユンディ・リのライヴと小沢&ベルリン・フィルのCD、「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番」では2010年札響&横山、2013年佐渡&BBC&辻井の感動的なライヴを思い出す。ラフマニノフの第3番ではPMF2017のベレゾフスキーの演奏を思い出した。今回CDでは第2・3番のキーシンの演奏を改めて聴いた。
「バルトーク:ピアノ協奏曲第3番」は2月にブロムシュテット&シフのデジタル・コンサートホールで聴いた。「第3番」は今まで聴いたことが無くてアンドラシュ・シフ{*20年前のKitara開館の年にKitaraで演奏)の姿と独特な演奏を聴いて印象付けられた曲。

今回は特別な読み方をしたが、別な機会に本だけに集中してもう一度読み直してみたいと思う。

※2013年本屋大賞を獲得した「海賊とよばれた男」を読んで大変面白かったことを覚えている。映画化もされたが本の面白さを失わないように映画は敢えて観なかった。原作者が社会的に発言する内容は意に沿わないが、本は非常に面白く読んだ。
今回も話題の本を読んで全国の書店員が選ぶ大賞への興味が募った。
※「蜜蜂と遠雷」の中で書かれたカタカナ語「アンラック」が3回でてきて気になった。英語のluckyの反対語はunluckyであるが、名詞で使うと“bad luck”が適当である。「アンラック」が“unlucky”の意味で使っていると思って読み流したが、実際に日本語でも普通に使われだしたのかと思った次第である。(*もと英語教師として、こんなことも気になるので書いてみた。)
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アメリカ合衆国のクリスマスと正月

1961年大学卒業後に全日制課程が設立された十勝の高校に勤務して第1期生を送り出したのが1964年3月であった。英語教員として一生を過ごすと考えていた頃、一度は海外留学をしたいと決意していた。国際ロータリー財団が世界で100名の大学院課程で学ぶ学生の募集をしていることを知った。(*国連で活躍した緒方貞子さんは1961年、日本で2人目の奨学生。)当時の日本のロータリー地区は13に分かれ、東日本と西日本で2年交代で留学生が数名派遣されていた。北海道地区は1名で選考試験は65年に数ヶ月をかけて実地され、同年秋に幸い選考試験に合格した。Rotary International の合格通知が来てからの大学の入学手続きを含めてすべて自分ですることになっていた。第5希望までの大学(1国が3つまで)を記入し、私は第1希望の米国フロリダ州立大学になった。当時は海外に出るためにはドルや円を持ち出すことに極めて厳しい制限があった。(円は2万円、ドルは500ドル以下と決まっていた。)外国為替銀行は東京銀行だけ、レントゲン写真は北海道大学病院で撮ったものを持参と出入国が厳しかった。当時で$4,000(*1ドル360円)が3回に分けて支出されたと記憶している。海外に出るのに3度は日本銀行札幌支店に出向いた。夜行列車で札幌に来ていた。 アメリカ領事館やHokkaido International School で英語の総合的な試験も受けに来た。若くて目的意識がしっかりあったから出来たことで今ならできそうにない。

1996年8月末に羽田空港を出発。50年前にはサンフランシスコやロスアンゼルスへの直行便はなかった。ハワイかアンカレッジで給油をしなければならない時代だった。50年も経つと国の事情もいろいろ違う。学問だけでなく国際親善のためにロータリークラブの招待があれば出席して30分程度のスピーチをすることになっていた。1年と決められた時間の中で自分にできる掛け替えのない活動が出来た。

今回はアメリカ市民が毎年クリスマス休暇中に外国人留学生を招く“International  House”について書き記してみたい。
50年前の出来事は詳しく覚えていないのは当たり前のことであるが、留学中は日記をつけていて帰国後は読む暇など無かった。3年ぐらい前に初めてノート数冊を通して読んだことがある。

1966年12月17日~1967年1月2日まで全米7つの家が解放された。人種、国籍、性別、独身、既婚、宗教に関わらず大学生、大学院生に呼びかけて開かれた家。私は19日にフロリダの隣のアラバマ州モービル(Mobile)まで長距離バスに乗って出かけた。
Mobileまでの交通費は自費でそれ以外は全て無料。都市の中心部にある教会関係の施設に宿泊。ハウスでの過ごし方は日曜日を除いて自由。行事の参加も各自の自由。ハウスでの滞在予定も参加者の自由。50名の定員は入所前に満員になっていた。
2週間の日程のうちクリスマスの期間の数日だけ参加したり途中で帰るのも自由ということで気軽に過ごせる自由度の高いアメリカならではの“International House”。

外国人はニカラグア、ナイジェリア、レバノン、香港、タイ、台湾、韓国、日本、オーストラリア、ドイツ、パキスタン、アフガニスタン、エジプトなど。
お世話をしてくれるアメリカ人は教会関係者。レストランやボーリング場などの経営者も無料で遊ばせてくれたりした。市内の有力者が大邸宅を案内してくれることもあった。昼食は街でピザやシー・フードを楽しむこともあった。20名程度の外出で留学生同士の交流もできるが、話が合う人は限られる。

24日午後は全員で太平洋戦争で活躍した戦艦アラバマの船内見学。モービル湾沿いを公園にして観光地化する計画のようであった。夕食は全員が個人の家に招待されて食べたdinnerはおいしかった。皆でChristmas songsを歌って楽しい時を過ごした。
日記によるとモスクワ放送でアメリカ人とカナダ人に向けて“Merry Christmas and Happy New Year”と呼びかけられた。

25日には多分2人づつペアで市内の各家庭に招かれて特別なDinner。この時は台湾人と一緒にturkeyを食べた。ホストが七面鳥の肉にナイフを入れて一人づつ皿に盛っていく様子に見入った。料理もとてもおいしかった。ホステスが“Did you bring a cold weather?”とか“Would you care for a cup of coffee?”とかいろいろ気を遣って場を和ませてくれた。家族を交えたChristmas Dinnerを体験出来て良かった。
7時から教会での夜の礼拝に出かけて4ヶ国の留学生が各々の国でのクリスマスの過ごし方を語った。9時半ごろハウスに戻って、またディナー・パーティがあったが、“Can I be excused?”と言って床に就いた。

26日はバスで全員Bellingrath Gardensを見学して記念撮影。木々が林立しする広大な庭で日本庭園もあったがお世辞にも立派とは言えなかったが世界的に有名だと説明を受けた。春は一面花できれいなようである。現在はおそらくライトアップされて見事な庭園になっていると想像される。

27日は貿易センターを見学すると実験室に7ヶ国語のテープが用意されていて、日本語のテープもあり日本の貿易面での重要な役割を目にした。日本紹介の雑誌は近代の日本を伝える良い記事で百科事典の古い記事とは比べ物にならない印象を受けた。
この日の夕方にはレバノンの留学生と一緒にディナーに招待された。彼は米国滞在2年余で巧みな英語を話しjokeも自由自在。お父さんが元大使で家柄も良いらしかった。食欲も旺盛でどんどん食べていた。ラマダンの時期に当たっていた。1日1食で夜に3食分を一度にとる習慣。この経験があって私はラマダンは12月末だとその後も十年ほどは思い込んでいた。毎年、時期が少しづつずれて変化するのを知ったのはかなり後年になってからだった。“ラマダン”という言葉に出会うといつもレバノンの留学生を思い出す。

招待された家庭は裕福な家庭が多いこともあって子どもたちは私立の有名な学校や大学に通っていたり、進学を目指しているようだった。我々への対応も明るく気持ちの良いものだった。子どもたちはどこでも可愛くて家族愛に包まれて家庭環境が良い感じがした。
ハウスを後にした学生も増え始めた。28日は州立造船所見学の予定だったが忙しい日程が続いたので、プランには参加せずにハウス内にとどまった。日本の留学生の奥さんと話をしていると黒人のコックさんが話に加わってきた。割合わかりやすい英語で“I like both of you.” 日本人が他の外国人に比べて自己主張が少なくて控えめなところに気づいていたようであった。彼の話ではここMobileでは他の地方と違ってcolored peopleのsegregation(黒人差別)が少なくてintegration(人種差別撤廃)がほぼ完全に行われているという信じがたいが興味深い話をしてくれた。教会の建物の料理人としての彼の特別な環境から出る話かなと思った。
※50年前の米国南部では学校、レストラン、トイレなどは白人専用と黒人専用に分かれていた。当時のフロリダは州立大学が2つしかなかった。白人だけが通える大学だった。2万人が学ぶ大学の広い構内(北海道大学よりはるかに広いキャンパス)で黒人の姿を見たことはなかった。

29日の午前中はテレビ局へ。見学と思っていたらドイツ・韓国・イランの留学生と一緒にテレビ出演。生放送でのインタヴューを受けた。午後は韓国1人、イラン3人とともにモービル・ロータリークラブの例会に出席して帯広ロータリークラブ(*国際ロータリー財団奨学生への推薦ロータリークラブ)のバナーと交換した。3日前のディナーに招待してくれた人がロータリアンで例会へ誘ってくれていた。この日は車酔いで疲れも出て夕食はとらずに頭痛薬をもらって早めに床に就いた。

1966年の最後の日は日本と違って大晦日の実感が湧いてこなかった。台湾の留学生と一緒に招かれた家庭でディナー。夕食後に彼らの娘2人、息子1人とともにNew Year's Eve Worship Serviceに出かけた。今年は天候に恵まれない年の暮れ。悪天候のせいもあって出席した人の数も少なめだった。12時にお祈りが終わると人々は口々に“Happy New Year”と互いに挨拶を交わしたが何となく物足りなかった。牧師の“Let us pray for World Peace”という言葉が強く心に響いた。
連絡の行き違いもあり、その後、別のご夫妻のお宅に世話になった。お宅に着いてレコードを聴くように勧められた。ベートーヴェンの第九の第4楽章とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてベッドに就いたのは1時半ごろ。(*この日記を読んで当時の記憶が蘇ってきた)。

アメリカの正月の行事はカレッジ・フットボールとバレード。Cotton Bowl (テキサス州ダラス)とGator Bowl(フロリダ州ジャクソンビル)のテレビ中継。現在はどうなっているか知らないが伝統は崩れていないのではと思う。
国民が家庭で祝う行事は特にないのではないか。

昨夜は遅く寝たので目覚めたのが8時半過ぎ。barのような場所での朝食。フロリダ滞在中、朝食用と夕食用の部屋が別になっているお宅も何軒か見た。New Year's Dinnerに今朝到着した中国人2人と招かれたお宅へ。特別な正月料理はないようである。supper に black and white beansを食べるのを習慣にしていると語ってくれた婦人もいた。健康と金運につながるそうである。

雨模様の毎日で昨日も今日(1月2日)も雨。午前10時半のバスでモービルを出発し、タラハッシ(フロリダの州都)には午後8時に到着。2週間のChristmas Holidaysは楽しかった。アメリカ人のhospitalityは素晴らしかった。50年後に日記を読み返して人の心の温かさを改めて感じた。
1年間のフロリダ滞在中に南部旅行をしたり、帰国の途中にワシントン、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、デトロイト、ロスアンゼルスなどでも得難い体験ができたことを幸せに思う。





カセットテープで聴く音楽で過去の思い出が蘇る

今日、家でクラシック音楽を聴くのはCDかEテレを通してである。ラジオやSP・EPレコードで聴き親しんだのは5・60年前のひと昔になる。LPレコードを定期的に購入したのが40年前であるが、日常的に習慣化して聴けるようになったのは20年くらい前からである。通勤途中のカーステレオで聴くためにカセット・テープを数本購入して、「ヴィヴァルディ:四季」や「ショパン:ピアノ協奏曲」などを聞き流していた時期もあった。70年代にLPは60枚以上購入していた。ウォ―クマンの普及で90年代にはカセットで「ホームクラシック名曲集」、「珠玉のピアノ名曲集」などを買い求めて気軽に聞く習慣をつけた。BGMのようなつもりで聞いていて耳に残る名曲が数多かった。CDを本格的に買うようになったのは1999年以降のことである。

数年前にカセットも使えるミニ・コンポが故障してからはCD専用のプレーヤーだけになってしまっていた。カセットにはCDで求めるのが難しい小品が結構多く収録されている。今年はカセットテープを聴く機会を増やすために1月にコンパクトラジカセを購入した。Kitaraに出かける機会が激減した2月から3ヶ月余りの期間でかなり集中的にカセットで名曲を聴いている。
今まで結構聞き流していた曲に耳を澄ますと新鮮に聞こえる。メロディは何となく耳にしていても作曲家の名をはっきり覚えていないような曲もある。イヴァノヴィッチ、モンボウ、リヒナーなどの名はすっかり忘れていた。羽田健太郎が解説した初心者向けの《ピアノフォルテ全10巻》は名演奏家による7・80年代の録音でCDより音はクリアでないが違った角度から楽しめる。30名以上のピアニストの中で半分くらいの演奏家の名は知らなかったが、アシュケナージ、アラウ、アルゲリッチ、ケンプ、コチシュ、チッコリーニ、バックハウス、ピリス、ブーニン、プレヴィン、ブレンデル、ベロフ、ラローチャ、ルイサダ、ロジェ、ワイセンベルク、ラベック姉妹などの著名なピアニストによる演奏はレヴェルが高いのではないかと感じた。Kitaraに出演したアーティストによる演奏はより身近に楽しめる気分になる。
ラベック姉妹は1970年代に旭川公会堂におけるコンサートで聴いたピアノ・デュオ。NHKクラシック音楽館で姉のカティアか妹のマリエルのどちらかがデュトワ指揮N響と共演していた様子を見て懐かしい想いに浸ったのは昨年のこと。今回も40年以上も前の状況を再び思い浮かべる機会となった。

今回改めてカセットを聴いてみて気が付いたことがある。チャイコフスキー作曲の「四季」は今までアンコール曲として数度聴いた曲。タイトルから4曲程度の組曲かなと思っていた。カセットに収録されていた曲は2曲。「謝肉祭」と「舟歌」はシューマンやショパンと紛らわしいタイトル。それぞれ「四季」より2月と6月。1月から12月までのロシアの詩を基に作った12曲から成る作品という。「舟歌 ト短調」は耳慣れたメロディでアンコール曲として弾かれた曲だと思う。2曲の演奏者ブリジット・エンゲラーは1990年のベルリン・フィル創立100周年記念演奏会にフランスからただ一人招かれ、ロストロポーヴィチや小澤征爾と共演して話題となったそうである。
近いうちにこの組曲のCDがタワーレコードで見つかれば手に入れたいと思う。

※昨日から時計台のボランティア活動を始めた。明日も含めて今月は時計台での活動を6回行なうことにした。Kitaraのコンサートには11日からスタートして5月は7回、6月は8回、7月は9回を予定している。整形外科病院でのリハビリもそろそろ終え体調を整えて予定通りに事が運ぶことを望んでいる。

“ありがとう”の言葉

米国・ボストンで開幕したフィギュア・スケート世界選手権の男子ショート・プログラムで日本の羽生結弦が見せた演技は凄かった。ショパンのバラード第1番の音楽をバックに見せる演技は正に至芸と言えよう。芸術とスポーツが融合したパフォーマンスは言葉で言い表せないほどの出来栄え。昨年から世界最高得点を立て続けに出しているが精神的にも重圧がかかる環境の中でパーフェクトに近い演技を行う彼の技術力と精神面の強さには感服する。
今日も演技終了後に言葉にした“ありがとうございました”(Thank you so much.)は観客に対する感謝の気持ちが表されている。(*口元を見て彼の言葉が分った。)得点表示の場面でもコーチにお辞儀をして感謝の言葉も伝えている。自分一人だけの成果ではないという想いの姿。偉大なスポーツ選手の範疇を超えた人間的な素晴らしさをYuzuru Hanyuから感じ取っている。

“arigato”の言葉を知っている外国人は今日では数多い。一昨年の南米旅行の折に空港で日本人旅行客に“arigato”と歓迎の意を口にした多数の空港職員。ブラジル出国の際に係官に“obrigado”(オブリガード)と言ったらビックリされた。(*私は外国旅行の折には簡単な挨拶言葉は現地の言語で対応している。)

日本では「ありがとうございました」の言葉は商店では当たり前に使われるが、役所で職員が使う言葉にはなっていないと思う。今日、訪れた札幌北区役所で対応に当たってくれたヴェテランの男性職員が所定の手続きが終った時にこの言葉を口にした。意外であったが役所の対応に変化を感じて嬉しく思った。

昨年秋、ひと月余り入院した札幌東徳洲会病院で看護師がごく自然に毎日病室を訪れた時に用事が終って口にする“ありがとう”の言葉に強い印象を受けていた。患者が医師や看護師に言う言葉としては当たり前でも、その逆は無いと思っていた。通院だけでは味わえない看護師さんたちへの感謝の思いを入院の度に感じるのは昔も今も変わらないと思う。言葉遣いは人の気持ちに影響を与える。お互いの人間関係を良くすためにも簡単な挨拶は状況に応じて使われるのは好ましいことである。

人間は感情の動物である。数日前に喜寿を迎えたばかりであるが、いろいろな場面に遭遇して学ぶことが多々ある。他人への感謝の思いの大切さを羽生選手を通して改めて知らされた。

ブログの再開に際して

10月中旬頃に体調が思わしくなくて、掛かりつけの内科医に診てもらった。心不全の状況にあることが判明して、紹介状を発行してもらい急遽総合病院に出向くと即入院と決まった。ボランティア活動や音楽鑑賞に時間を使っている場合ではなくなってしまった。
自覚症状がないうちに心筋梗塞にかかっていたことが判って驚愕したのが数年前のことだった。これまで特に心臓に異常は感じていなかったのだが、詳しい検査の結果、冠状動脈バイパス手術を受けることとなった。
手術後、順調に回復して2週間が経った今日午前、やっと退院の運びとなった。35日間の入院期間は長かった。

この間、オペラやコンサートなど10月は6回、11月は3回のコンサート鑑賞が出来なかった。幸い妻や親戚の者にチケットを有効に使ってもらった。10月札響定期のマイシートは札響に譲ることとした。残念だったのは、11月8日に札幌で初開催のクラシックソムリエ検定を受けれなかったこと。エントリー、シルバーの両方のクラスを受検するつもりであった。また、来年を期することにしたい。

妻は内田光子のピアノリサイタルに最も感激したようであった。それほど期待していなかった盲目のピアニスト梯剛之(かけはし たけし)のオール・ショパン・プログラムによるピアノリサイタルには感動して会場でCDを買い求めてきた。私自身、彼のリサイタルは99年、01年に続いて久しぶりに聴く予定であった。妻がCDプレーヤーを病室に運んでくれて3回通してショパン、リストの曲を聴いて気分転換を図れた。梯は生後1ヶ月で視力を失ったが、音楽の才能が花開いて、98年にはロン=ティボー国際コンクールで第2位、2000年にはショパン国際ピアノコンクールでワルシャワ市長賞受賞など輝かしい実績を収めてきたピアニスト。ここ数年、いろいろな心身の悩みを乗り越えて見事に復活した様子が円熟した演奏を通して伝わってきた。

親戚の者がKITARAをはじめて訪れる機会を得て、ピリス&メネセスのデュオ・リサイタルを聴いてホールの素晴らしさに圧倒されたようだった。今度はオルガンのコンサートも聴いてみたいと印象を述べてくれたのも良かった。今回のことでチケットを無駄にせずに札幌コンサートホールを身近に感じてくれる人が出たのは嬉しいことであった。

明後日の小山実稚恵「音の旅」に始まり11月も4回のコンサートチケットが手元にある。ブログを休んでいる間にも、連日毎月以上に私のブログにアクセスしてきている人たちがいるのには驚きを禁じ得ない。いつまで続くか判らないが自分の記録にとどめる意味もあって書き続けようと思う。



Kitaraのバースディ 18th Anniversary ~オルガン&ヴァイオリン&コーラス~

オルガン、ヴァイオリン、合唱の共演で祝うKitara18回目のバースディ

2015年7月4日(土) 15:00開演  札幌コンサートホールKitara 大ホール

オルガン/ マリア・マグダレナ・カチョル(第15代札幌コンサートホール専属オルガニスト)
ヴァイオリン/大平まゆみ(札幌交響楽団コンサートマスター)
合唱/札幌市立琴似中学校、手稲東中学校、西野中学校、北陽中学校

[Program]
〈オルガンソロ〉
 J.S.バッハ:前奏曲とフーガ ハ長調 BWV545
 ベートーヴェン:オルガン・トリオ第1番 ト短調
         笛時計のための5曲WoO33より メヌエット:アレグレット、アレグロ
 ハチャトゥリアン/カチョル編曲:バレエ音楽「ガイ-ヌ」より ワルツ
〈合唱とオルガン〉
 モーツァルト:モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 K..618
 木下牧子作曲/三好達治作詞:鷗
〈合唱とピアノ〉
 寺島尚彦:さとうきび畑
 中島みゆき/田中達也編曲:麦の唄
〈ヴァイオリンとオルガン〉
 ハチャトゥリアン/カチョル編曲:バレエ音楽「ガイ―ヌ」序曲
                バレエ音楽「ガイ-ヌ」より ヌーネとカレンの踊り
 ラフマニノフ:14の歌曲 作品34より ヴォカリーズ
 ガ―シュウィン:3つの前奏曲
 ヴエーバー:聖なるミサよりべネディクトゥス
 サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン 作品20
 シュタム:谷と丘の向こうに
 ハキム:奇想曲
〈ヴァイオリンと合唱とオルガン〉
 J.S.バッハ:カンタータ「心と口と行いと生活で」BWV147より コラール「主よ、人の望みの喜びよ」

マグダレナ・カチョルは2012年9月~2013年8月、Kitaraのオルガニストを務め、札幌だけでなく東京、京都などを含めて積極的な活動を展開したポーランド出身のオルガニスト。帰国後、ポーランド各地の演奏会に出演し、オランダ・フランス・イタリア・リトアニアなどの音楽祭にも参加しており、2年ぶりに来札した。任期中の「オルガン・サマーナイト・コンサート」で札響コンサートマスター大平まゆみと共演してお互いに意気投合。昨年3月にはルクセンブルグの教会で一緒にCD録音を行なったというほどの音楽仲間。

カチョルはKitaraのオルガンの音色の豊かさを存分に生かした幅広い演奏を繰り広げた。編曲も得意で聴衆の心を掴むプログラムを随所に見せた。ガ―シュウィンの曲はオルガンで演奏するのは難しいようだが敢えてチャレンジしたそうである。
任期中に中学生と共演する機会もあって今回のプログラムに合唱も加えたのではないかと思った。
約240名の合唱団は爽やかな歌声でレヴェルの高さを披露して大ホールを埋めた聴衆の拍手喝采を浴びた。

ヴァイオリンとオルガンの作品では聴き慣れた曲やメロディがホールに流れて、大平まゆみの人気もあって各曲の演奏後に拍手が起こり、アンコールの声も上がった。特に「ツィゴイネルワイゼン」は有名な作品で、弾きごたえのある長さの曲でヴァイオリニストの技量が発揮された。シュタムとハキムは初めて聞く作曲家の名前。現代曲なのだろうが、案外と親しめる作品。シュタムはカチョルが札幌にいた時に友人に彼の作品を勧められたと言う。彼女が帰国後に参加したドイツでのコンサートで彼に偶然会って、彼の作品を今回のプログラムに入れたそうである。

バッハの数多いカンタータの中で全10曲からなる第147番。第6曲と第10曲は同一曲だが歌詞を変えて歌われる。第10曲の歌詞の冒頭部分を取って呼ばれる作品。ピアノ曲や管弦楽曲としても親しまれている名曲。今回はヴァイオリン&合唱&オルガンの形式で美しい旋律が荘厳な曲となって聴衆の心に響いた。コンサートの最後を飾る感動的な演奏! ワン・コインで楽しめた素晴らしいコンサート。

1997年7月4日、札幌コンサートホール落成記念式典に参列してから、《Kitaraのバースディ》コンサートは「Kitara 開館5周年記念」、04年、06年、「Kitara開館10周年」、08年と鑑賞。前回は12年の「オリヴィエ・ラトリー・オルガンリサイタル」だったが、今回も印象に残る《Kitaraのバースディ》になった。17年7月4日の20周年記念プログラムが楽しみである。


 

エルム楽器創立40周年記念コンサート

40年の感謝をこめて ~エルム楽器史最大の演奏会~
 ELM 40th ANNIVERSARY CONCERT 2014
 ~ 世界で活躍する室蘭市出身・3名の音楽家を迎えて~

2014年11月30日(SUN.) 14:30開演 札幌コンサートホール Kitara大ホール

北海道室蘭市で創立された会社が本社を札幌にして北海道の音楽文化の発展に寄与してきた。創立40周年を記念して、室蘭市出身の音楽家を中心に据えて大々的なコンサートを開催した。渡邊一正指揮で管弦楽は札幌交響楽団。

〈前半のプログラム〉
 ベートーヴェン:ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲 ハ長調
 リスト:ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調(ピアノ:上野真)
 
渡邊一正(Kazumasa Watanabe)は1966年生まれ。96年から東京フィル指揮者に就任。広島響の正指揮者(95-02)を務めたほか、日本各地のオーケストラに客演。海外ではサンクトぺテルブルグ響にも客演。新国立劇場でオペラ、バレエも指揮。ピアノの名手でモーツァルト、ベートーヴェン、ラヴェルのピアノ協奏曲の弾き振りも行う。

上野真(Makoto Ueno)は室蘭市出身。昨年2月にKitara小ホールで開催されたヤマハ創業125周年記念特別企画「上野真ピアノリサイタル」に出演。その折にプロフィールは紹介済み。

四方恭子(Kyoko Shikata)は1957年神戸生まれ。ドイツ屈指のオーケストラ、ケルン放送響の第1コンサートミストレス(90-03)。その間、コンチェルト、室内楽、ソロのリサイタルでも活躍。98年10月、ビシュコフ指揮ケルン放送響のコンマスとして日本ツアー(札幌ではソリストが樫本大進。この時のコンマスが彼女だったので、それ以来彼女に注目していた)。05年から兵庫芸術文化センター管のコンサート・ミストレス、09年から東京都響のソロ・コンサート・ミストレスにも就任。アフィニス夏の音楽祭の音楽監督も務めている。現在、京都市立芸術大学教授。

上村昇(Noboru Kamimura)は1952年千葉県市川市生まれ。京都市立芸術大学卒業。77年、日本音楽コンクールチェロ部門第1位。79年、カサド国際チェロ・コンクール優勝。83年に続き90年に札響定期で共演(この時、彼の「ハイドン:チェロ協奏曲を初めて聴いた)。91年ノイマン指揮チェコ・フィルと共演。現在、京都市立芸術大学教授、桐朋学園大学客員教授。

最初のプログラムはベートーヴェンが残した唯一のチェロを伴った協奏曲。“Triple Concertofor Violin, Cello & Piano in C Op.56” はオイストラフ、ロストロポーヴィチ、リヒテル、カラヤン指揮ベルリン・フィルの輸入盤のディスクで聴き親しんでいる。これまで生演奏で聴いた記憶は無い。ソリストを3人も揃えるのが大変なのだろうと思う。今日の演奏会に備えて予め聴いてきたので大曲を身近に聴けた。名高いソリストを迎えて重厚な演奏会の幕開けの曲になった。

リストはそれまでのピアノ奏法とは異なった両手を高く上げ、凄まじい音量で鍵盤を弾き、圧倒的なテクニックで人々を魅了したピアニストとして知られる。この曲の初演は1855年ベルリオーズの指揮で作曲家自身のピアノによって行われた。各楽章4・5分程度で4楽章から成る。全体で約18分で聴きやすく聴衆は華やかな演奏技術に圧倒される。客席の8割が埋まったようだったが、聴衆からブラボーの声が飛び、暫し拍手も鳴りまず演奏者に対する驚きの声も聞こえた。
YAMAHA CFXのピアノを使っての音量は効果的であった。上野は19世紀のピアノ、プレイエルやエラールを使用したアルバムを発表しているが、最新のヤマハのピアノでの圧倒的な演奏は現代の聴衆の心を惹きつける。札幌市内だけでなく地方から駆け付けた幅広い年齢層の人々に強烈な印象を与えたように思った。私自身も彼の演奏を聴いたのは3回目だが、演目が協奏曲と言うこともあってリストの演奏に感動した。
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〈後半のプログラム〉
 土田英介:ピアノ協奏曲(ピアノ独奏:泊真美子) [世界初演]
 チレア:オペラ「アドリア―ナ・ルクヴール」より“私は創造の神のつつましい僕”
 ヴェルディ:オペラ「ドン・カルロ」より“世の虚しさを知る神よ”
 プッチーニ:オペラ「トスカ」より“歌に生き愛に生き”

土田英介(Eisuke Tsuchida)は室蘭市出身の作曲家。東京藝術大学卒業。同大学院修了。1984年、第53回日本音楽コンクール作曲部門第1位(管弦楽曲)。オーケストラ、室内楽、合唱、ピアノ、ヴァイオリン曲など多くの作品がある。現在、東京音楽大学教授、洗足学園大学客員教授。東京芸術大学講師。桐朋学園大学講師。

泊真美子(Mamiko Tomari)東京藝術大学卒業。2003年、第72回日本音楽コンクールピアノ部門第1位。これまでに沼尻竜典指揮東京響、高関健指揮新日本・フィル、渡邊一正指揮札響ほかと共演。近年は「公共ホール音楽活性化事業」、「サントリーホール芸術財団サマーフェスティバル」でも活動。

立野至美(Yoshimi Tatsuno)は室蘭市出身。武蔵野音楽大学卒業。同大学院首席卒業。ミラノ国立ヴェルディ音楽院修了。イタリア・カタラーニ国際コンクール1位。数々の国際コンクールで優勝を重ね、イタリアの国立歌劇場を始めヨーロッパの歌劇場で活躍。藤原歌劇団団員。現在、武蔵野音楽大学講師。

後半のプログラムに登場した作曲家やピアニストの名は初めて耳にした。土田英介作曲の作品は国内やアジアでも演奏されていると言う。ヴァイオリン協奏曲が戸田弥生+十束尚弘指揮札響、漆原啓子+小松一彦指揮新日本フィル。管弦楽曲はソウル、上海、ハノイで演奏され高い評価を得たと言う。ピアノ・ソナタも泊真美子との録音盤がある。
本日の演奏曲は作曲家の集大成となる作品のようで、3管編成のオーケストラ、打楽器9(?)、ハープ2、ピアノ、チェレスタなど現代曲ならではの楽器編成(独奏用ピアノの他にもう1台ピアノが用意された)。かなりの大曲で曲が長く、ある程度の予備知識がないと鑑賞が難しい。弦楽器の演奏方法も変っていてピアノ独奏も特徴があって、それなりに興味はあった。
作曲家自身も1階席で聴いていて感激も一入だったのではないかと思った。

最後に登場したのがオペラ歌手、立野至美。室蘭出身で海外のコンクール入賞のニュースで早くから名前を知っていた。Kitaraの開館記念のコンサートにも何度か登場してその活躍ぶりを目にしていたが、今日は久しぶりのKitara登場。耳にした声は一段と磨きがかかって今までより声量が増した感じ(ソプラノ・スピントの範疇に入る歌声か)。舞台衣装、声量ともに一層華やかでオーラを発している印象さえ受けた。
札幌での知名度の高いソプラノ歌手の登場で客席が湧きたった。3階を埋めた客席まで届く素晴らしい歌唱に拍手喝采が湧き起こって会場の雰囲気が一気に盛り上がった。
アンコール曲にテノール歌手の協力を得て、「ヴェルディ:乾杯の歌」の場面を熱唱。

指揮者と管弦楽はソリストの引き立てにまわって控えめな役まわり。音楽教室や楽器購入などで繋がりのある聴衆が札幌だけでなく地方からも集まったようで、聴衆の年齢層も極めて広く特に若い人たちが多く目立ったのが良かった。

多文化共生とは何か?

札幌国際プラザ外国語ボランティアとして活動して7年目に入る。今は主として札幌時計台を訪れる来館者の対応を行なっている。公益財団法人札幌国際プラザ多文化交流部は400名ほどのボランティア登録者が海外からの訪問客のニーズに応ずるべく様々な活動を行う窓口になっている。

昨日(2014年4月21日)、北海道国際交流・協力総合センター主催で札幌国際プラザが共催する「多文化共生講演会」が〈かでる2・7〉を会場にして開かれて参加してきた。講演者は多文化共生センター大阪の代表理事の田村太郎。田村氏は1995年阪神大震災直後に外国人被災者支援の活動を行って、多文化共生センターを立ち上げ、現在、センターは東京、京都、大阪、兵庫、広島の全国5カ所で活動展開。彼は甲南女子大学・大阪市立大学大学院・関西学院大学非常勤講師も務め、復興庁上席政策調査官としても活躍している。

「多文化共生」という言葉はボランティア活動を始めた時から、グループ活動が行われていて世界各地の留学生との交流会に何度か参加して彼らの文化を知る機会を得てきた。グループのリーダーたちは、留学生や家族の支援だけではなく、彼らの子どたちの学習支援も行って活動している。

表面的なことしか知識が無かったが、今回の講演会で多文化共生について認識を深めることができた。

「多文化」は英語で形容詞にして“Multicultural”(*multiは<多い>の意味)と訳されるが、「多文化共生」は“Intercultural”。(*interは<~の間>という意味を持つ接頭語なので“international”「国家間の、国際的な」という語からも容易に類推できる。)
つまり、「多文化共生」とは、いろいろな文化を持った人々と共に働いて暮らしていくこと

日本は少子化・高齢化社会になって人口が減少して、製造業や建設業だけでなく医療介護の分野でも外国人を必要としている。
スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国は高福祉・高負担の社会として知られている。1970年代にベトナム人やアフリカ人を移民として受け入れてきた移民政策が今日の国家の基盤を作り上げてきたことが、日本ではメディアを通しても余り報じられていない。フランスはアラブ民族、ドイツはトルコ人を移民として受け入れてきたことは比較的に良く知られてはいる。彼らはアジア人も受け入れてきたが、今やEU地域内の労働者だけを受け入れているようである。
日本だけでなく韓国や中国も少子化・高齢化社会になって、「多文化共生」は今や世界的潮流となってきているのを、昨日の講演会を通して改めて認識した。

オランダ、フランス、ドイツなどでは移民教育の法律が2006年から施行されている。移民を必要とする対策が各方面で取られていることが、具体的に講演で語られた。日本でも政府は取り組み始めているようであるが、国民的な話題になっていない。フィリピン人やインドネシア人の看護師の問題、製造業に従事する日系ブラジル人や中国人の話題が偶に報じられるだけである。
北欧では移民政策によって女性の就業率が上昇し、世帯当たりの所得も上昇して、出生率も40年前の1.5から1.9に上がっている。これは大変、興味深い数字である。

講演のポイントは外国人を観光客として迎えるだけでなく、外国人も暮らしやすい地域づくりを目指すことであった。
外国人登録をして日本に在住していた外国人は、2012年7月から住民基本台帳法に基づいて住民登録するように変わった。彼らの日本滞在の長期化で「出稼ぎ」から「永住」へ指向が変化して、子どもの教育・就労、高齢者福祉も課題として顕在化してきている。
現在、在留外国人数は約210万人。永住資格者(10年以上の定住者)は100万人を越えて、年々増加傾向にある。外国人に対する法制度の不備や社会資源の不足が上げられるが、市民の認識が変っていないことが大きな課題ではないかと思う。
訪日外国人の数が1千万人を越えて嬉しいニュースには違いないが、今回の講演会は多文化共生を目指して活動を見直してみる良い機会になった。

資料を充分に用意してよどみなく講演する田村氏は学生相手にも講義する機会が多くて慣れているようであった。内容が極めて明晰で、時折ダジャレを入れながら巧みな話術で90分余りの講演を見事に展開した。久しぶりに聴いた長時間の講演はあっという間に時間が過ぎた。充実感の味わえるとても有意義な講演であった。

元英語教師の勝手なクラシック評論 札幌交響楽団第566回定期演奏会(コメント返礼)


元英語教師の勝手なクラシック評論 札幌交響楽団第566回定期演奏会



お名前が三連星さんという方からコメントを頂きました、返事を書こうとしましたらこの欄になりました。以前と違う状況で当惑しています。三連星さんへの返礼のつもりで以下に書いておきます。

自分の記録の意味もあって長いブログを書いています、以前より少し短いとはいえ、読むのに忍耐力が必要かも知れません。クラシック音楽好きの方には斜め読みなどで、さほど抵抗はないかもしれません。それでも私は音楽は専門ではありませんので、コンサートの印象は大雑把なのです。楽譜に忠実に演奏しているかどうかの判断は出来ません。全体的に聴いた印象を書き綴っているだけですので、音楽専門の人からは的外れな感の記事もあるでしょう。

楽しむのを目的にしてコンサートに通っていますので、人それぞれの印象を持つのは自由であると考えています。自分の好きな曲やアーティストには思い入れがあるので、その日の演奏の出来・不出来には余り影響を受けません。勿論、聴衆と一体感を味わえる演奏に接する感激は一入です。

先日のコンサートの曲目は古典派中心でしたので、BGMとして心地よく聴けても、大ホールで多くの聴衆を集めるのは難しかったかも知れませんね。ポピュラーな向こう受けする曲ばかりというわけにもいかない定期演奏会の曲目選びは簡単ではないと思います。ただエリシュカさんの人気度は凄いですね。4月の定演の期待度が断然高くて楽しみです。(*昨シーズンの定演2公演の満足度1位、2位独占。来シーズンの定演2公演の期待度1位、2位独占)

クラシック音楽を主にしたブログを書き始めて一年半になります。これまでに160本あまり書きました。北海道が多いのですが、日本中はもとより世界各国からアクセスがあるのは嬉しい限りです。過去のブログを読んでくださる方が多いのが特徴です。以前と違ってブログ名で一覧が直ぐ出て来ないのが難点です。広告も載せずに気儘に書いていますが、興味のある記事がありましたら読んでみてください。

バーンスタインの"West Side Story"の裏話

 バーンスタインの"West Side Story" は彼が作曲した中で最も有名な曲になっている。
1990年にスタートしたPacific Music FestivalでもPMFオーケストラが
「ウエストサイド・ストーリー」から≪シンフォニック・ダンス≫を演奏した。
2008年のPMFはバーンスタインの生誕90年にあたり、Gala Concert celebrating the 90th anniversary of the birth of Maestro Leonard Bernstein が開催された。 「オール・バーンスタイン・プログラム」で 'Symphonic Dances' from "West Side Story"も演奏されたのは記憶に新しい。

 去る9月10日の札幌公演でもシェナ・ウインド・オーケストラが「ウエストサイド・ストーリー」から≪シンフォニック・ダンス≫を演奏した。
 この時のブログで、私は「バーンスタインが曲を作った当初の題名は《イーストサイド・ストーリー》であったことを知っている人は何人いるでしょうか」と書きました。

 機会があれば新たなブログで書いてみようと思っていたのです。
たまたま明日23日の"Kitara のクリスマス"での演奏曲目に入っていたのでこのタイミングにしました。

 2008年にバーンスタインの伝記を読みました。500ページ以上の分厚い本でバーンスタインの身近にいた人の書物でしたが、残念なことに著者の名前を覚えていません。
 彼の本によるとバーンスタインは19歳~20歳の時に"East Side Story"という曲を作りましたが、話題にはならなかった。それから20年ぐらい経ってから、ブロードウェイでミュージカルとして上演されることになりました。ブロードウェイでの初演は1957年でバーンスタインが39歳の時でした。
 
 当時はニューヨークのマンハッタンのイーストサイドと呼ばれていた地域は1945年以降に国連ビルが建つなどして都市開発が行われて周囲の環境が20年前とは様変わりしていた。(私も1967年にニュ―ヨークに1週間滞在していたのでこの本に書かれている事情は直ちに理解できました。)
 そんなわけで舞台状況に合うウエストサイドの地域がバーンスタインが作曲しようとした場面にピッタリということで、ミュージカルの題名が"West Side Story"に変えられたそうです。

 この事実を知った時に「これ本当の話?」と疑って読み返したのを覚えています。1967年当時はイーストサイドはイタリア系やプエルトリコ系の貧しいアメリカ人が住む地域ではなくなっていたのです。ハドソン川沿いのウエストサイドは依然としてあちこちに古いビルがあってミュージカルや映画(1961年、ジョージ・チャキリス主演)の場面に合う状況でした。

 尚、バーンスタインは1960年にミュージカル中のいくつかの曲を集めて編曲してオーケストラのための演奏会組曲「ウエストサイド・ストーリー」からの≪シンフォニック・ダンス≫を作りました。この曲がしばしばオーケストラのレパートリーとして演奏されているのです。
 
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Author:fsuterry
年間60回以上札幌コンサートホールKitaraに通うクラシック音楽ファン。クラシック全般に関心があるがオーケストラ・ピアノ曲が特に好きである。 

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